宮脇愛子さんのステンレス・スチールのワイヤーを大きく空間に撓(しな)わせた《うつろひ》と出会ったのは、同じ《うつろひ》の名を持つ、断面がセクション・ペーパー状になった、重厚な金属作品をパリの「間」展で見てから、まだ半年とたっていない頃であった。
私の胸のなかには、パリで見た《うつろひ》の、きらびやかで優雅な、平安貴族の宴(うたげ)の終りを見るような印象がまだ残っていた。それはちょうど一夜の歡楽の果てに眺める夜明けの桜の花のように、華麗で、冷たく、透明で、儚(はかな)かった。堅牢な、四角い、磨き込んだ金属の塊りが、どうしてこれほど軽やかな〈美〉を喚び起こすのか、私は、芸術の持つ魔術的な力に今さらのように打たれていたのだった。
それだけに同じ《うつろひ》の名を持つ、しかし、まったく着想と形態の異なる作品が表われたとき、正直のところ、私は息を呑んだ。そこには、宮脇愛子さんが持つ《うつろひ》の主題が、一段とのびのびと、力強く、自由に表現されていたからだった。この第二の《うつろひ》を見るまで、第一の《うつろひ》にすでに含まれていたに違いないこの大らかな自由感を読みとることはできなかった。私が見たのは、夕日を反射する海面のきらびやかさに似た、没落直前の一瞬の華麗さだけであった。
だが、真の《うつろひ》── 宮脇愛子さんが日本の高貴な精神伝統のなかから直覚した古くて新しいこの主題 ── は、決して時の中での喪失が惹き起こす美感ではなく、実は、滅びそうでいて滅びず、消えそうでいて消えない、転身の秘法で萬物の中に遍在する、永遠の生命感の在り方に他ならなかった。《うつろひ》がもし単に朝日に消えてゆく白露の儚い透明な悲しみを指すならば、人は物の一面しか見ないことになる。つまり、うつろい行く萬象の表面にとどまって、その奥に実在する、より深い生命の息吹きに気がつかないことになるのだ。あたかも池水に浮ぶ雲の往き来に気をとられて、睡蓮の咲く水面そのものを見ないのと同じである。
宮脇愛子さんが、のびのびと空に円弧を描くステンレス・スチールのワイヤーで表現したのは、萬象の上を渡ってゆくこの不滅の生命なのだ。それは風のように爽やかであり、鳥の飛翔のように自由であり、子供の投げる礫(つぶて)のように無心である。ワイヤーはゆるやかに、鋭く、旋回するバレリーナの軌跡のような弧を描く。大都会の硬質の空間でも、緑の風の渡る森の中でも、ステンレス・スチールのワイヤーは、生命の、このときめくような弾みを形象する。
先日、こうしたスチール・ワイヤーの描く眩暈を、一瞬のうちに焼き付けたような素描の版画を見て、そこに東洋の水墨にも似た静と動があるのを見出し、新たな感銘を覚えた。宮脇愛子さんは「中国語でいう〈気〉を表現したい」と書いているが、私は、空間に拡がるワイヤーのカーヴより、この筆勢の躍動する素描のほうに、いっそう〈気〉の息吹きを感じる。ここには禅画にも似た簡素な自由感と解脱とユーモアがある。おそらく静かに息を整えた人には虚空を渡る風の音が聞こえるに違いない。それこそが《うつろひ》の真諦(しんたい)をなすものと私には思えるからである。
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「宮脇愛子ーある彫刻家の軌跡」展カタログ(神奈川県立近代美術館発行)より転載
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