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喪われた本を求めて
思想・芸術
BOOK GUIDE vol.II

品切れ本を中心とした書評ページです。

エッセイ・評論 思想・芸術 文学

思想・芸術篇

01『プラトンに関する十一章』アラン
02『第一書房 長谷川巳之吉』
03『千利休』唐木順三
04『天使のおそれ』G. ベイトソン
05『英国のプラトン・ルネサンス』
          カッシーラー

06『ルネサンス 人と思想』清水純一
07『奇想の系譜』辻 惟雄
08『本の神話学』山口昌男
09『日本美術の流れ』源 豊宗
10『日本美術の表情』辻 惟雄
11『神々の再生』伊藤博明

第一書房_長谷川巳之吉_林達夫_日本エディタースクール出版部
日本美術の流れ_源豊宗 日本美術の表情_辻惟雄
かたちと力_ルネ・ユイグ
奇想の系譜_辻惟雄
英国のプラトン・ルネサンス_エルンスト・カッシーラー
本の神話学_山口昌男
天使のおそれ_グレゴリー・ベイトソン
ルネサンス_人と思想_清水純一
プラトンに関する十一章_アラン 千利休_唐木順三

プラトンに関する十一章

アラン/森進一 訳

1988年8月20日発行 筑摩書房刊 238ページ
「筑摩叢書 326」

目次
第一章 ソクラテス
第二章 プロタゴラス
第三章 パルメニデス
第四章 イデア
第五章 洞窟
第六章 ティマイオス
第七章 アルキビアデス
第八章 カリクレス
第九章 ギュゲス
第十章 袋
第十一章 エル
<付>アリストテレスについてのノート

ソクラテスの死のドラマ

プラトンを読むということは、不思議な体験だ。プラトンの対話篇は、精緻な論理の積み重ねでわたしたちを魅惑してやまない。しかし、言葉の集積で構築された論理からは、なにかしら論理に対する不信感のようなものが立ち上ってきてはいないだろうか。

全集第1巻には、ソクラテスにたいしてなされた告発と刑死にかかわる一連の出来事を描いた4篇の対話が収録されている。『エウテュプロン』『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン』である。はじめの3篇は、プラトンが著述を始めた初期に、同時に書き継がれたらしいが、最後の『パイドン』は、それから十数年が経過した中期の作だという。さて、これらの4作品をこの順番で続けて読むとき、プラトンの物語作者としての力量に読者は驚かざるをえない。

ソクラテスの死にかかわる事柄だけを追っていくと、この4篇はドラマチックな構成で緊密に組み立てられている。『エウテュプロン』は、ソクラテスが告発を受けて予審裁判所に召還される日の対話である。そして、『ソクラテスの弁明』は、裁判官および市民たちの注視のなか、繰り広げられる法廷弁論の推移と、死刑が宣告されるまでを描く。つづく『クリトン』では、死刑執行が数日後に迫った日に、友人のクリトンが獄中のソクラテスを訪れて、脱獄に誘おうとする。しかし、ソクラテスは「大切にしなければならないのは、ただ生きるということではなくて、よく生きるということなのだ」と言って、助けの手を拒む。

これら4作品の最後の『パイドン』は、いきなり、ソクラテスの死後十数年がたったという設定で、回想形式で語られる。かくして、ソクラテスの死そのものの描写は、これら4巻の最後になってようやく回想のなかに現れるのだ。現在という時間のながれの先端に、回想という異なる時間を流しこむことで、ドラマをいっそう劇的に盛り上げる手法は、ホメロスの『イーリアス』『オデュッセイアー』以来の伝統だ。プラトンはホメロスの顰みに倣って、ひとつの神話的物語を完結させたかったのだろうか。いや、ソクラテスの死は完結しない。アランが示すように、それはのちになって『国家』篇に結実することになるだろう。

ソクラテスは死に臨んで、あの有名な遺言を残す。それは「クリトン、アスクレピオスに鶏を一羽おそなえしなければならなかった。その責を果たしてくれ。きっと忘れないように」というものだ。アスクレピオスとは医療の神で、患者はその神殿の一隅で「眠ること」によって快癒したという。その神の供儀には鶏が捧げられた。プラトンは、ソクラテスが死という永遠の眠りにつくことによって、生という病から快癒したことを、暗示したのだ。ちなみに、肉体(ソーマ)は墓(セーマ)である、という脚韻を踏んだ格言を、プラトンは別の対話でソクラテスに語らせている。

偏在者・ソクラテス

さて、アランの『プラトンに関する十一章』は、このソクラテスの話題から始まる。

「今日でもなお、プラトンのかなたに、われわれが眼をそそいでいるのは、実はソクラテスなのである。われわれに欠けているものがあるとすれば、それこそ、普遍者を心から信じきることだ。(中略)いや、普遍者を否定する思想のなかにも、普遍者の君臨していることを知ることなのだ。もしわれわれ自身もまた、ソクラテスのこうした君臨に参加するなら、そのときわれわれは、プラトンを真に理解することになるだろう」(本書 p.16)

ソクラテスの死の局面を、4篇にわたって遅延させ続けたプラトンは、ただ尊敬と追慕の念だけで、そうしたのではないだろう。ソクラテスのまったき死をうけいれることは、裡なる普遍者の君臨を意味することなのだ。こうしてプラトンは「イデア」という「思考自体を思考する」作業に取り憑かれていく。

「ソクラテスは、死において、いっさいの姿をあらわしたのだ。プラトンは、もはやただ彼ひとりでいるのではなかった。彼はみずからの内部に、自分と反対なる者をいつもたずさえることになった。爾後長年にわたって、彼は、この反対者と ── プラトン自身よりはるかにプラトンでありつづけたこの反対者と、ひそかに語り合ったのだ。だがまた、次のことをつけ加えてもかまうまい。すなわち、そのプラトンも、老いて後は、ついにまたしばしば自己一人の姿にたちかえり、自己の本性にしたがって、再び政治のことに立ちもどったのである。(中略)「法律篇」は、この太陽の如く輝かしき天才のみごとな落日の姿である。また、あの晩年のたびかさなるシケリアへの旅における出来事は、ソクラテスの目には、プラトンが、みずからの手により、みずからを罰し、みずからを浄めた姿とも映るであろう ── その贖罪が不朽のプラトンを完成した」(p.21)

シケリアへの旅とは、対話篇ではなく、プラトンが一人称で唯一語った書簡、特に名高い第七書簡でふれられる旅のことだ。だが、先を急ぐまい。

論理的思考と笑い

「笑うとは、ひとかどのことなのだ。そして笑わせるところのもの、これもまた、精神という美しい名前に値するように思われる。もしひとが、この箇所(『パルメニデス』第二部)において、あまりきまじめになることを避けようと欲するなら、『パルメニデス』の前に、悪意のない茶番劇であるところの『エウテュデモス』を読まなければなるまい。そこでは、たとえば次のような推論が見いだされる ── 君の犬は子を持っている、だから母親だ。ところで彼女は君のものである、ゆえに君の犬は君の母親でもある ── と(注・この結論には、アランの記憶違いがある)。(中略)だがわたしは、プラトンの、意味深くいつも含み多い技術が、ここでわれわれに次のことを理解させようとしているのではないかと思うのだ。すなわち、他のことがらにおいても、結論がわれわれに好ましく思われるような場合には、上に述べたことと大差ない推論で武装する術を、われわれはよく心得ているのではないか、ということである」(p.53)

『パルメニデス』とは、プラトンの対話のなかでももっとも切れ味の鋭い、言葉による論理操作の超絶技巧が披露される作品として古来から有名である。一方、『エウテュデモス』は、『パルメニデス』の陰画のように、ソフィストの無茶苦茶な論理の言葉遊びを徹底的に皮肉った、抱腹絶倒の異色の対話である。日本の落語に通じた味わいすらあるので、アキレウスの名訳のある呉茂一氏に江戸弁で訳してもらいたかった作品である。アランの言うとおり、大いに笑ったあとで、読者は自分のすがたを省みなければならないのかもしれないが。

それはともあれ、いよいよプラトンの思想の山脈に踏み入る前に、アランは、あまりきまじめにロジックだけを追うなと忠告を発する。ロジックは、プラトンの執拗なソフィスト批判に見られるように、人をやすやすと欺く諸刃の剣だからだ。結論を先回りするようだが、アランは、プラトンを読むことの真の意義を別の次元に求めようとする。

イデアという動くもの

「プラトンは『国家篇』第六巻において誰よりもみごとに語っている。幾何学的図形は、イデアを映した影であり、映像にすぎぬというのだ。この証明の意味していることは、まさしく次のことなのだ。イデアを目で見ようとしてもむだであること、イデアは心で理解すべきだということなのである。
 今後もひとは長い間、そしておそらくは徒労に、知的直観の探求をこころみるだろう。視覚からひき出されたこの比喩は、もよとり色も形も担ってはいないので、存続し、現われている対象の概念を担っている。これに対し、理解する働きは、運動と進行を通じてのみ、われわれに教える。だから思考が見いだすものは対象ではない。むしろ、移行、移行の連続、(移行からの)解放、次々と続いて消え去る瞬間、において思考が見いだすところのものは、思考自身なのだ。そして、おそらくは、思考のこうした動きが、実はイデアのいっさいなのであって、他に、イデアの名に値するような、知的対象 ── いや知的存在というのも知的所与というのも自由だが ── そうしたものは全く存在しないのである。(中略)プラトンが繰り返し語るイデアは、ただ会話の連続によってのみ把えられるのだ。そしてこの連続が、すなわち問答法(ディアレクティケー)というものなのである」(p.68)

ここでたった一度だけ、プラトン自らの発言を引用しなくてはならない。
「しかし、たしかにこれだけのことは ── わたしが心を砕いている事柄に関して、わたしからでもほかのひとたちからでも教わって、あるいは自分自身が発見したつもりで、知識を持っていると称しているかぎりの、すでに書物を書いたか、これから書こうとしているひとたちすべてを指して ── 言明できます。すなわち、これらのひとたちは、少なくともわたしの判断では、肝心の事柄を、少しも理解している者ではありえない、と。実際少なくともわたしの著書というものは、それらの事柄に関しては、存在しないし、またいつになってもけっして生じることはないでしょう。そもそもそれは、ほかの学問のようには、言葉で語りえないものであって、むしろ、(教える者と学ぶ者とが)生活を共にしながら、その問題の事柄を直接に取り上げて、数多く話し合いを重ねてゆくうちに、そこから、突如として、いわば飛び火によって点ぜられた燈火のように、(学ぶ者の)魂のうちに生じ、以後は、生じたそれ自身がそれ自体を養い育ててゆくという、そういう性質のものなのです」(第七書簡より)

プラトン自身は、書かれたものではなく、対話のうちに感得される「言葉で語りえないもの」が問題であると主張する。アランが、問答法(ディアレクティケー)こそが、イデアの正体だと指摘し、イデアは心で理解すべきだというのは、まさしくこの意味においてである。書かれたもの=テクストとしての問答法(ディアレクティケー)のなかにプラトンはいないのだ。でなければ、テクストのなかに「言葉で語りえないもの」を探し求めるという自己矛盾に、読者は陥ってしまう。では、プラトンの秘教的ともいえる姿勢にたじろぐことなく、その真意にたどり着く道はどこに見いだされるのだろうか。

本書の後半部分において、アランはその方向を示してくれる。ここで、アランという人物が、言葉やロジックだけで自己の哲学を組み立てたひとではないことを、わたしは思い出す。「哲学の先生はあなたを体操の先生のところへつれてゆく」という、肉体的にも精神的にも明朗で健全な「幸福論」を書いたアランらしく、示された道の方向はほかならぬわたしたち自身に、しかもよりよき生を志向するわたしたち自身に、向かっているのだ。モラリスト・アランの面目がここから徐々に発揮されてくる。

モラルという劇薬

「プラトンは言う ── 不正なことは、君が他人の財を奪ったということではない。君がそれを奪うことによって、必然的に、最良の秩序と、最悪の秩序とを、君の内部においてとり替えたことなのだ、と。これこそプラトンならずしてはありえない言葉なのだ ──(中略)もし君が内心において正しくなければ、それを正しきものとすることができないのである。これよりもはげしいモラルは存在しない。そして、これこそが、万人のモラルなのだ。考えてみるがいい、たとえ正直なひとにしても、もし、そのひとを正直にしているものが、貪欲と怯懦より成ったものだと誰かが感づいたなら、いったい誰がそのひとを尊敬するであろうか」(p.166)

プラトンの最高峰『国家』は、正義について論じられた対話篇であることを、もう一度思い出そう。『パイドン』によってソクラテスの死を描き終えたプラトンは、その「死」の意味を『国家』においてあますところなく追求する。

「われわれは、あの強烈な思想の動きに ── それは、ソクラテスが手を触れて以来、常に外面から内面への道をたどりつづけたものだが ── その思想の動きに、拉し去られたようである。自分自身に対する信頼を回復すること、判断の拠点を回復すること、大切なことはここにある」(p.167)

「自分自身に対する信頼を回復すること、判断の拠点を回復すること」を、ソクラテスは端的に「よく生きること」と言い切ったのかもしれない。謙虚に、しかし同時に自信をもって、よりよき生を思考=試行すること。プラトンのテクストのなかにその例示はあっても、わたしたちの生はテクストの外部にしかない。アランというモラリストの柔和なほほえみの下には、意外に冷徹な眼差しが光っている。

「この(人間を取りもどすことを要求する)思想は、われわれの粗野なソクラテスにかなりふさわしいし、それに劣らず、老いたプラトンにも ── シケリアに再び渡り、(以来よく知られた言葉に従えば)死よりもむしろ生について瞑想した、老プラトンにふさわしいのである。ここに、きわめて豊かなこの学説におけるさまざまな回り道のもつ深さの一例があるのだ。また隠遁生活と、国家の法律に従った公の生活との間には、秘かな対応があるという、よき例があるのだ。かくてわれわれの語るごとく、節制や勇気のなかには博愛精神がないけれども、正義の中には、それが宿るということになるであろう。プラトンは、われわれに、その数々の道を、およびそれ以外の多くの道をも開いているのだ。その道を通っていくと君たちは、再びイデアを ── つねにわれわれを問題から問題へと抛げこみ、諸問題を提出するだけで、それ自身の姿を現わさない ── あの謎に満ちたイデアを、再び見いだすことになるであろう」(p.169)

考えるとは、このことを言う

先に、アランはこう言った ── 思考の動きが、実はイデアのいっさいなのであって、他に、イデアの名に値するようなものは全く存在しないと。そして、それを実践する限り、ひとはつねに新しい謎を生み出してしまうのだ。だが、無限に増殖する謎に惑わされることなく、自身に対する信頼を保ちながら歩みつづけなければならない。それが生きるという仕事なのだ。

「よく考慮してみれば、時間のもつさまざまな姿を、時間を超えた思考の中に集めるのが、われわれの仕事なのである。考えるとは、このことを言う。各瞬間は、われわれのいっさいであり、各瞬間は充足している」(p.188)

プラトンを読むことは、プラトンと時間を超えた対話を行い、生きることの各瞬間を充足させることである。そのとき、いっさいがわたしたちを満たす。このようにして、アランはプラトンを秘教的な姿から実践的な姿へと置き換えてみせてくれる。

最後にひと言。アランの文体は、ペンの流れに身をまかせてつむぎだされる直感的なスタイルで、論理の飛躍も多い。だからそれは時に詩的であり、時に晦渋である。だが、これまで多くの人たちが(日本人ももちろん)彼のフランス語から多大な影響を被っている。本書を読み続けたあいだ、アランを原書で熟読したであろう石川淳や吉田秀和の文体がそこかしこで思い出された。次の一節などは、アランが影響力を発揮する典型的なスタイルだろう。

「プラトンは確かに多くの弟子を持ってはいる。しかし彼はなお新鮮だ。プラトンは危険で、ほとんど知られていないところがある。そしてプラトンを理解しているひとですら、プラトンの見解通りに教えるということは、手に余ることなのである。それは、プラトンが彼の秘密をもらさないからだ。むしろ、いま一つの謎を、この世でいちばん美しい謎をもらしているからだ。しかし、問題はまさしくそこにある」(p.79)

by takahata: 2004.11.30

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プラトンに関する十一章_アラン
『幸福論』_アラン
『幸福論』アラン 白水社刊