BOOK GUIDE vol.II | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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品切れ本を中心とした書評ページです。 |
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源豊宗 協力 上山春平 1976年12月15日発行 思索社刊 328ページ 目次 本書は、今は亡き美術史家・源豊宗氏が、古代から近代までの日本美術の展開を、平明な話し言葉で語った貴重な対談記録であり、哲学者・上山春平氏がその対話者の役を務めている。この対談という形式は、初心者でも気軽に入っていくことができるし、対話者の上山氏が、要所要所でポイントをおさえながら話題の流れを整理してくれるので、読者はそのナビゲートにしたがって、広大な美術史のなかに遊ぶことができる。また、著者は1895(明治28)年生まれなので、対談時は81歳だったわけだが、まさに日本近代美術史の生き証人の思いがけない回想が随所に盛り込まれていて、興が尽きない。美術史家の辻惟雄氏は本書をこのように評している。「このような幅広い視野とロマンティシズムをあわせ持つ学者は、今後もう現れないだろうという感銘を読後あたえられる」(『岩波 日本美術の流れ7 日本美術の見方』)。 もっとも、一人の美術史家が、限られた頁数のなかで、すべての日本美術を語ろうとするこの壮挙には、当然ながら、かなりの題材的な取捨選択が働いている。たとえば、取りあげられる日本美術は、絵画作品に限られるし、そのなかでも浮世絵の類はほとんど言及されない。語られる画家たちの数も網羅的とはいえない。しかしながら、それでもなお考察の対象となる美術史的問題は、本書をひもとけば了解されるように、厖大な量が残されている。それらのなかから、史的な重要性をもつ事項が多面的に選択され、著者ならではの審美眼によって、美術史的に的確な位置づけがなされていく。日本人の「美意識」の伝統が、古代より外国からの影響を摂取しつつ、どのように受け継がれ、どのようにその表現を展開してきたかという問題意識を基本として、その視線は見事に日本美術の流れを有機的にとらえており、ぶれることがない。このような実感をともなった日本美術史の構想は、おそらく著者の世代までの史学者にしか実現できなかったものだろう。いまとなっては希少な歴史的証言が残された幸運に感謝したい。 秋草の美学 序章のタイトル「ヴィーナス・龍・秋草」というのは、一見、何のことか判然としないが、実は、ヨーロッパ、中国、日本で美の象徴と目されるものを列記したもの。ところで、本来、日本の「うつくしい」という言葉は、「可愛い」という意味でつかわれていたという。 さて、日本の美術の特性に関して、著者は次の三点を指摘する。第一に、上に述べた「情趣的」ということを美の表出性とする。第二に、造形性としては「平面的」であり、日本の絵画は線の絵画であるという。さらに第三に、日本の美は「あはれ」であり、対象への時間的感情移入によって見出されるとする。これは日本の大和絵が、人生が主題である物語絵として発達したということの理由であり、中国から入ってきた禅宗や水墨画などから教えられた枯淡という美が、日本的なわびとなったのは、あはれという日本人の美的感情と結びついたからだという指摘がつづく。 桃山時代の新気運 第五章では、日本人の情趣主義をキーワードにして、中国から移入された水墨画・花鳥画がどのように日本で装飾化されていったかをあとづける。以下はその要約である。 桃山時代は金の産出量も増え、戦国時代を経ての大建築の再建時代であった。一番格式の高い部屋はさすがに水墨画だったが、書院、晴れの間などは金地極彩色の華やかで装飾的な襖絵で埋められていく。また、そういう趣味は風俗画などにも出てくる。以降、この「装飾主義」という性格が、日本美術の精神のひとつの大きな流れとして確立する。 宗達と光琳 ふたたび要約を続ける。 「宗達の最も大きい特徴は、描かれる形象が縹渺とした大らかさをもっていることです。つまりやわらかく描くことです。ある意味で、宗達には線がないといえると思います。実際には線があっても線が否定されているということです。彼は割合に、ふっくらした太い線をひいています。もともと線は速度をもっているものなのです。速度をもつということは勢いをもつということです。ところが線が太いために速度が全然抑えられている。勢いというものを露わにしていないのです。それから、輪郭の線というものは、対象を限定することですね。そういう限定ということは、対象を明確化することであるだけに、理知的な固さを伴うものです。宗達の線はそういう固い限定性をもっていないのです。私のいう縹渺性です。それは人間的なやわらかさといえると思います」。(p.178) そして、宗達と、その良きパートナーであった光琳についての以下の対比は興味深い。 さらには、この両者について美術史的に貴重な次のような証言もある。 ここで、ひとつの疑問が浮かぶ。先回りするようだが、第八章において著者は大正末期から理知的な日本画表現が台頭してきて、結果的に円山四条派を没落させると指摘する。その事実と、宗達再評価が同時期の大正末期に現れたということは、ちょっと考えると矛盾した動きのようにも思えるのだが、そこにはなにかしらの因果関係が認められるのだろうか? その答えは昭和期の新しい日本画の分析にまで待たなければならない。 日本の南画 第七章では、南画、あるいは文人画というジャンルが論じられる。中国から入ってきた水墨画の枯淡は、日本では次第に優美化されていった。そういう枯淡が優美化されたところにわびといい、瀟洒といわれる感覚が現れてくる。そしてまさに、江戸時代の美は「瀟洒」という言葉でいい表されると著者は指摘する。また、瀟洒とわびには共通性がある。つまり、感覚的でありながら、その感覚性を同時に抑制している趣があり、この点、瀟洒のもう少し優美化が進んだものが、やがて粋と呼ばれる美学となる。ここに指摘される「枯淡→瀟洒=わび→粋」という、唯美主義的な進化過程が、そのまま日本における南画の展開のバックグラウンドとなるようだ。そして、室町期の日本人が中国本国に先駆けて黙谿を評価したような現象が、南画の積極的な受容において再現されたと著者は指摘する。 岡田米山人、浦上玉堂、野呂介石などの出た文化時代は大雅、蕪村のあとを受けて、一種高古の趣をおびていたが、文政に現れてくるのが木米、竹田、山陽の世代。山陽と竹田は非常に親しく、ふたりで《亦復一楽帖》という傑作を残している。ただみんな天保年間に亡くなるので、日本の南画は天保で終わりを告げたる。例外的に、明治になって現れたのが富岡鉄斎だ。 写実主義の勃興 18世紀になると長崎に沈南蘋が来朝して、中国のリアリズム絵画を伝える。この長崎派は鶴亭という僧によって京都に(京都では伊藤若冲へ影響を与える)、宋石紫によって江戸に伝えられる。こうした近代的写実主義の手法を取り入れて、日本本来の大和絵をよみがえらせたのが円山応挙だ。その後、この応挙のあとをついで、応挙風の写実主義に蕪村風の瀟洒性をとりいれた独自の表現世界を築き上げたのが、のちに四条派の祖となる呉春である。呉春の俳味のある抒情性は、当時の教養人一般に人気を博し、やがて明治の市民社会が到来すると、明治浪漫主義にその精神が受け継がれていく。現在では、ほとんど語られることのなくなった呉春という画家に対して、著者は詳細な分析を展開し、その美術史的な役割に高い評価を下している。 昭和の知性的造形主義 著者は近代の日本画家のなかで小林古径を高く評価する。作品としては、意外にも、大正15年の《機織(はたおり)》を評価し、そこに描かれている「無表情な娘の顔」、「直線構造の機(はた)」、「背景を描かない構図」に、知性的に計算された造形主義を認めている。そして、対象を明晰な図形にデフォルメするこのような造形主義は、実は、大正末期に評価の高まった宗達芸術から影響を受けていると指摘する。古径が琳派の作風を研究し、それを現代的に蘇らせた作品としては《鶴と七面鳥》(昭和3年)が有名だが、そこにみなぎる装飾的感覚こそが、いにしえから脈々と受け継がれてきた日本美術の伝統の発露だと著者は言う。 「この宗達の発見と、装飾主義の勃興ということは、パラレルの現象だったのです。幾度もいいうようですが、日本民族の芸術精神は本質的に情趣主義と装飾主義なのです。それだから古典的精神の勃興した昭和時代に、その古典的本質としての造形性が、装飾的性格において展開したのは自然なことだったといえると思います」(p.314)。 以上、本書の主な内容を要約してきたが、要旨をたどるのに精一杯で、対談のやりとりの妙を伝えることは、残念ながらできなかった。興味をもたれた方は、本書を味読されたい。 喜ばしいことに、2006年4月に新思索社から復刊されている。 by takahata: 2005.08.11 |
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