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失われた本を求めて
BOOK GUIDE vol.II

品切れ本を中心とした書評ページです。

エッセイ・評論 思想・芸術 文学

日本美術の流れ

源豊宗  協力 上山春平

1976年12月15日発行 思索社刊 328ページ

目次
はしがき
序章 ヴィーナス・龍・秋草
ヴィーナス─西洋/龍─中国/秋草─日本/日本の美術を貫くもの
第一章 日本美術の前代─民族芸術と宗教芸術の時代
美術史の三段階/日本の仏教芸術/万葉的精神
第二章 日本美術の独立
貞観時代の意味するもの/古今集の美術史的意義/専門絵師の出現/女絵の発生と大和絵/絵画と文学/絵師の作風/書としての仮名芸術/源氏物語絵巻
第三章 鎌倉への展開
後白河時代/鎌倉時代の世界意識/新古今的美的理念/宋文化の流入/あはれの変質
第四章 水墨画の受容
黙谿と日本/破墨と溌墨/伝来当初の水墨画/水墨画のジャンル的成立/日本様式の回復
第五章 桃山時代の新気運
水墨画の日本化─狩野派/狩野派の意味するもの/日本の花鳥画/風俗画の勃興/宗教芸術の消滅
第六章 宗達と光琳
日本美術の装飾性/宗達の芸術/光琳の芸術/宗達・光琳の伝統
第七章 日本の南画
日本のディレッタンチズム/日本における南画の受容方式/池大雅/与謝蕪村/化成期の南画/浦上玉堂/木米・竹田・山陽
第八章 写実主義の勃興
リアリズムの気運/応挙のリアリズム/山水画から風景画へ/長崎派/日本画における雰囲気表現/応挙の美術史的意義/呉春の四条派/呉春芸術の評価/絵画の市民化/呉春の作風/「日本画」の成立/明治時代/浮世絵
第九章 明治浪漫主義
新明治様式の成長/新明治様式のロマンチシズム/明治様式の完成
第十章 昭和の知性的造形主義
造形主義と装飾主義/迫力主義と抒情主義/戦後の時代
あとがき

本書は、今は亡き美術史家・源豊宗氏が、古代から近代までの日本美術の展開を、平明な話し言葉で語った貴重な対談記録であり、哲学者・上山春平氏がその対話者の役を務めている。この対談という形式は、初心者でも気軽に入っていくことができるし、対話者の上山氏が、要所要所でポイントをおさえながら話題の流れを整理してくれるので、読者はそのナビゲートにしたがって、広大な美術史のなかに遊ぶことができる。また、著者は1895(明治28)年生まれなので、対談時は81歳だったわけだが、まさに日本近代美術史の生き証人の思いがけない回想が随所に盛り込まれていて、興が尽きない。美術史家の辻惟雄氏は本書をこのように評している。「このような幅広い視野とロマンティシズムをあわせ持つ学者は、今後もう現れないだろうという感銘を読後あたえられる」(『岩波 日本美術の流れ7 日本美術の見方』)。

もっとも、一人の美術史家が、限られた頁数のなかで、すべての日本美術を語ろうとするこの壮挙には、当然ながら、かなりの題材的な取捨選択が働いている。たとえば、取りあげられる日本美術は、絵画作品に限られるし、そのなかでも浮世絵の類はほとんど言及されない。語られる画家たちの数も網羅的とはいえない。しかしながら、それでもなお考察の対象となる美術史的問題は、本書をひもとけば了解されるように、厖大な量が残されている。それらのなかから、史的な重要性をもつ事項が多面的に選択され、著者ならではの審美眼によって、美術史的に的確な位置づけがなされていく。日本人の「美意識」の伝統が、古代より外国からの影響を摂取しつつ、どのように受け継がれ、どのようにその表現を展開してきたかという問題意識を基本として、その視線は見事に日本美術の流れを有機的にとらえており、ぶれることがない。このような実感をともなった日本美術史の構想は、おそらく著者の世代までの史学者にしか実現できなかったものだろう。いまとなっては希少な歴史的証言が残された幸運に感謝したい。

秋草の美学

序章のタイトル「ヴィーナス・龍・秋草」というのは、一見、何のことか判然としないが、実は、ヨーロッパ、中国、日本で美の象徴と目されるものを列記したもの。ところで、本来、日本の「うつくしい」という言葉は、「可愛い」という意味でつかわれていたという。
 「藤原時代でも『枕草子』には〈うつくしきもの〉は子供のような愛らしさだといっていますね。(略)それは同時に綺麗という意味でもつかわれているのです。ヨーロッパの美というものはそうじゃなくて、視覚的に調和のとれ、そしてわれわれに快適を与えるような、まさに視覚的感性が美であって、日本のはこれに対して非常に情緒的・情趣的です。そういう点では、中国の美は非常に意志的な厳正なもので、精神的といってもいいわけです」。(pp.21-22)

さて、日本の美術の特性に関して、著者は次の三点を指摘する。第一に、上に述べた「情趣的」ということを美の表出性とする。第二に、造形性としては「平面的」であり、日本の絵画は線の絵画であるという。さらに第三に、日本の美は「あはれ」であり、対象への時間的感情移入によって見出されるとする。これは日本の大和絵が、人生が主題である物語絵として発達したということの理由であり、中国から入ってきた禅宗や水墨画などから教えられた枯淡という美が、日本的なわびとなったのは、あはれという日本人の美的感情と結びついたからだという指摘がつづく。
 このあと、第二章、第三章では、世界文明史的な視点から見た日本美術の揺籃時代が語られる。とくに女絵と職業画家の二分化、大和絵と漢画の二分化などの対比的な流れの分析が、『源氏物語絵巻』『新古今集』などの文学作品との関わり合いを契機としてなされる点は興味深い。さらに日本美術が本質的に文学性と深い関係を有していたことが、のちに明治になって日本美術史が書かれる際、その書き手が国文学者であった理由だという指摘はおもしろい(たとえば、明治34年に『日本絵画史』を書いた横井時冬、明治36年に『日本近世絵画史』を書いた藤岡作太郎)。

桃山時代の新気運

第五章では、日本人の情趣主義をキーワードにして、中国から移入された水墨画・花鳥画がどのように日本で装飾化されていったかをあとづける。以下はその要約である。
 もともと、宋の画院で好まれた花鳥画は克明な写実であった。それはヨーロッパ的に現象をリアルに表現するのではなくて、現象を超えて、奥深くにある本質的なものを描こうとする、「格物致知」的な傾向があった。しかし日本人の情趣主義はそういう克明な現象の追求には向いておらず、日本的に装飾主義の方向に展開していくことになる。同時に、鎌倉時代に移入された水墨画も、その内面的なさびしさが中和され、形式化される。それを成し遂げたのが狩野派という集団であった。狩野派、あるいは〈漢画〉といってもいいが、その骨法用筆主義が、芸術の根本原理として日本絵画の著しい特質となったことは、非常に重要な事実だ。応挙の円山派も狩野派から出発しているし、歌麿にしても狩野の筆法が出ている。

桃山時代は金の産出量も増え、戦国時代を経ての大建築の再建時代であった。一番格式の高い部屋はさすがに水墨画だったが、書院、晴れの間などは金地極彩色の華やかで装飾的な襖絵で埋められていく。また、そういう趣味は風俗画などにも出てくる。以降、この「装飾主義」という性格が、日本美術の精神のひとつの大きな流れとして確立する。
 この頃、日本より少しおくれてはいるが、オランダでも風俗画が勃興してきたということは非常に興味深い。風俗画の勃興ということと裏腹に、宗教芸術が日本の美術史から姿を消していったことは注意してよい。民衆の芸術的志向が宗教へよりも世俗的世界へ傾いたわけであり、ヨーロッパでも、日本と同じく、17世紀以降、宗教芸術は姿を消していく。そこに東西に共通する近世的人間の芸術意識の変質が認められる。

宗達と光琳

ふたたび要約を続ける。
 水墨画が流行した足利時代の美術は、まったくしぶい、さび一辺倒と考えられやすいけれども、実は派手な華やかなものがかなりあったらしい。そして16世紀になると、そういう日本人的なものが一挙に台頭してくる。秋草の美学が、いよいよ金碧の屏風にも描かれるようになったのだ。しかも、色彩の面もさることながら、構図の面で非常に装飾的になっているのが注目される。(たとえば、河内金剛寺の《日月山水図屏風》)。等伯の金碧花鳥画はまさにその代表例である。 しかし面白いことに、智積院の等伯の金地極彩色の花鳥画は、昭和の初めまでは、狩野永徳と山楽の筆と寺でも認め、学者の間でもそう考えられていた。ということは、日本の近世の漢画には、公分母としての狩野的なものがあったということになる。ところで、この様式の最も見事に発揮されたのは宗達であった。
 宗達の描く「線」についての以下の描写は、本書のなかでも白眉の分析と言える。

「宗達の最も大きい特徴は、描かれる形象が縹渺とした大らかさをもっていることです。つまりやわらかく描くことです。ある意味で、宗達には線がないといえると思います。実際には線があっても線が否定されているということです。彼は割合に、ふっくらした太い線をひいています。もともと線は速度をもっているものなのです。速度をもつということは勢いをもつということです。ところが線が太いために速度が全然抑えられている。勢いというものを露わにしていないのです。それから、輪郭の線というものは、対象を限定することですね。そういう限定ということは、対象を明確化することであるだけに、理知的な固さを伴うものです。宗達の線はそういう固い限定性をもっていないのです。私のいう縹渺性です。それは人間的なやわらかさといえると思います」。(p.178)

そして、宗達と、その良きパートナーであった光琳についての以下の対比は興味深い。
「光琳の軽妙さというのは、狩野派の筆法の修練という土台があって、初めて出てくるのだと思うのです。あの軽妙さは宗達では出てこない。大和絵だけでは出てこないのですね。あの当時の一つの美的理念、たとえば俳諧などにいう軽みですね。そういう軽みの理念が光琳の芸術に出てくる。そこで光琳は俳諧的といっていい。宗達は和歌的です」。

さらには、この両者について美術史的に貴重な次のような証言もある。
「しかし、非常に興味深いことには、琳派の認識が高まると同時に、いままで琳派という光琳本位であった認識が、いつしか光琳を抜いて宗達の認識が特に高まってきたということです。たとえば大正時代にできた美術史の図版には光琳が入っていても、宗達は入っていないということもあったのです。ところが、大正末期から、宗達の評価が高まってきて、その結果宗達の作品がずいぶん発掘されたわけです」。(p.192)

ここで、ひとつの疑問が浮かぶ。先回りするようだが、第八章において著者は大正末期から理知的な日本画表現が台頭してきて、結果的に円山四条派を没落させると指摘する。その事実と、宗達再評価が同時期の大正末期に現れたということは、ちょっと考えると矛盾した動きのようにも思えるのだが、そこにはなにかしらの因果関係が認められるのだろうか? その答えは昭和期の新しい日本画の分析にまで待たなければならない。

日本の南画

第七章では、南画、あるいは文人画というジャンルが論じられる。中国から入ってきた水墨画の枯淡は、日本では次第に優美化されていった。そういう枯淡が優美化されたところにわびといい、瀟洒といわれる感覚が現れてくる。そしてまさに、江戸時代の美は「瀟洒」という言葉でいい表されると著者は指摘する。また、瀟洒とわびには共通性がある。つまり、感覚的でありながら、その感覚性を同時に抑制している趣があり、この点、瀟洒のもう少し優美化が進んだものが、やがて粋と呼ばれる美学となる。ここに指摘される「枯淡→瀟洒=わび→粋」という、唯美主義的な進化過程が、そのまま日本における南画の展開のバックグラウンドとなるようだ。そして、室町期の日本人が中国本国に先駆けて黙谿を評価したような現象が、南画の積極的な受容において再現されたと著者は指摘する。
 以下、日本南画の開拓者・祇園南海、さらにその確立者となった池大雅、その盟友・蕪村の話題がつづく。時代は文化・文政へと進む。この頃になると、南画は以前の洒脱な様式から、端正な、生まじめな表現に移り変わってくる。この時代は、米山人とか浦上玉堂、野呂介石、木村兼葭堂などが代表的だが、なかでも著者は浦上玉堂を高く評価する。
「玉堂は以前はそう特に注意されてはいなかったのです。ところが昭和9年に京都博物館で展覧会が行われました。玉堂のすぐれた作家という認識がそのころから始まったわけです。当時、南画の三大画家といわれていたのが、第一は大雅、第二は青木木米、第三は田能村竹田ですが、そのころから玉堂に対する認識が一変したのです。昭和になると、日本の画壇の表現がシャープなきびしい表現を愛好するようになったのです」。

岡田米山人、浦上玉堂、野呂介石などの出た文化時代は大雅、蕪村のあとを受けて、一種高古の趣をおびていたが、文政に現れてくるのが木米、竹田、山陽の世代。山陽と竹田は非常に親しく、ふたりで《亦復一楽帖》という傑作を残している。ただみんな天保年間に亡くなるので、日本の南画は天保で終わりを告げたる。例外的に、明治になって現れたのが富岡鉄斎だ。

写実主義の勃興

18世紀になると長崎に沈南蘋が来朝して、中国のリアリズム絵画を伝える。この長崎派は鶴亭という僧によって京都に(京都では伊藤若冲へ影響を与える)、宋石紫によって江戸に伝えられる。こうした近代的写実主義の手法を取り入れて、日本本来の大和絵をよみがえらせたのが円山応挙だ。その後、この応挙のあとをついで、応挙風の写実主義に蕪村風の瀟洒性をとりいれた独自の表現世界を築き上げたのが、のちに四条派の祖となる呉春である。呉春の俳味のある抒情性は、当時の教養人一般に人気を博し、やがて明治の市民社会が到来すると、明治浪漫主義にその精神が受け継がれていく。現在では、ほとんど語られることのなくなった呉春という画家に対して、著者は詳細な分析を展開し、その美術史的な役割に高い評価を下している。
 応挙、呉春は、今日、洋画と対立させて考える日本画という新しいジャンルをうちたてた画家だと著者は指摘する。ところが、応挙が現在でも高い人気を博しているのとは対照的に、呉春の評価は急落する。そのあたりの事情を、著者は次のように分析する。 円山・四条の芸術というものは、大正時代にはまだ第一級の評価を受けていたが、昭和10(1920)年前後からその評価が傾いてきた。その理由は、京都に続いていた芸術の江戸的なものが、東京的なものに変わっていったからで、かわって台頭してきたのは、小林古径などの理知的な日本画表現であった。このような風潮が呉春の評価没落につながってくるという。それが明瞭に出てくるのが震災後、大きく見れば第一次大戦後のことであった。
 また、「日本画における雰囲気的表現」の節では、ジョットオと狩野派や応挙の描く空間表現の違いについて、比較分析が楽しげに試みられていて興味深い。

昭和の知性的造形主義

著者は近代の日本画家のなかで小林古径を高く評価する。作品としては、意外にも、大正15年の《機織(はたおり)》を評価し、そこに描かれている「無表情な娘の顔」、「直線構造の機(はた)」、「背景を描かない構図」に、知性的に計算された造形主義を認めている。そして、対象を明晰な図形にデフォルメするこのような造形主義は、実は、大正末期に評価の高まった宗達芸術から影響を受けていると指摘する。古径が琳派の作風を研究し、それを現代的に蘇らせた作品としては《鶴と七面鳥》(昭和3年)が有名だが、そこにみなぎる装飾的感覚こそが、いにしえから脈々と受け継がれてきた日本美術の伝統の発露だと著者は言う。

「この宗達の発見と、装飾主義の勃興ということは、パラレルの現象だったのです。幾度もいいうようですが、日本民族の芸術精神は本質的に情趣主義と装飾主義なのです。それだから古典的精神の勃興した昭和時代に、その古典的本質としての造形性が、装飾的性格において展開したのは自然なことだったといえると思います」(p.314)。

以上、本書の主な内容を要約してきたが、要旨をたどるのに精一杯で、対談のやりとりの妙を伝えることは、残念ながらできなかった。興味をもたれた方は、本書を味読されたい。

喜ばしいことに、2006年4月に新思索社から復刊されている。

by takahata: 2005.08.11

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日本美術の流れ

思想・芸術篇

01『プラトンに関する十一章』アラン
02『第一書房 長谷川巳之吉』
03『千利休』唐木順三
04『天使のおそれ』G. ベイトソン
05『英国のプラトン・ルネサンス』
          カッシーラー

06『ルネサンス 人と思想』清水純一
07『奇想の系譜』辻 惟雄
08『本の神話学』山口昌男
09『日本美術の流れ』源 豊宗
10『日本美術の表情』辻 惟雄
11『神々の再生』伊藤博明