BOOK GUIDE vol.II | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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品切れ本を中心とした書評ページです。 |
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山口昌男 1971年7月30日 中央公論社刊 238ページ 目次 ユダヤ人の知的情熱 モーツァルトと「第三世界」 「社会科学」としての芸能 もう一つのルネサンス 補遺 物語作者たち 本書は刊行当時は話題になったものの、それがすぐに売れ行きに結びつくこともなく、再版がでるまでに丸四年がかかっている。その後、中公文庫で入手できたが、最近は品切れとなったようだ。本書の文献案内のメモを手に、古書街を探索する大学生たちとすれ違った70年代はすでに遠のいてしまったけれど、知のガイドブックとしての有効性はいまだに衰えていないと思うのだが..... 文章のスタイルは過激に挑発的。というのは、沈滞気味の日本の読書界に刺激を与えて、新しい展望を切り開こうとする著者の熱い意思がみなぎっていたからだ。勇み足の瑕瑾もあるが、のちに「トリックスター論」をひっさげて、つづく80年代日本思想界をゆさぶった著者の、もっともやんちゃ坊主だった時期の文体がここにある。 第一章の「二十世紀後半の知的起源」では、ピーター・ゲイの『ワイマール文化』という翻訳書が、誤訳指摘の集中攻撃を浴びせられる。そして、こてんぱんに批判された『ワイマール文化』は、あえなく絶版に。しかし、版元のみすず書房も偉かった。ちゃんと別の翻訳者に新しい翻訳を依頼し、「新版」として出版し直したのだから。ところで、その誤訳箇所の例に挙げられていたのが、ワールブルク文庫とカッシーラーの出逢いをザクスルが描写した、あの有名な箇所だった。ワールブルク著作集が刊行されるに至った今日の目からみると、意外かも知れないが、ワールブルクって、誰?というのが、当時の大多数の状況だった。日本におけるワールブルク学派の業績の移植は、まさに本書が起爆剤となって始まったのだ。 また、「悪魔祓いのための ─ 例えばブランショなどの翻訳にみられる傾向 ─ 儀式としての翻訳が行事化し、翻訳=忘却といった悪循環が固定化した結果、このところ西欧の学問とわれわれの学問の間に、再びある種の断層が生じつつある.....」という指摘は、残念ながらいまだに有効ではないか。ブランショの『来るべき書物』などは、ぜひ新訳を期待したいところだし、『期待 忘却』(皮肉な題名ですねぇ)は、訳者豊崎光一氏の読み方とは別の非人称的な一面を秘めているはずだ。なにもフランス文学に限ったことではないが、外国語能力の向上に反比例するように、日本語表現力が貧困化の一途をたどり続けている....おっと、山口氏の口調が感染してしまったようだ。 こうして、ユダヤ人文化論、音楽文化論、演劇文化論と、山口氏の博覧強記によって数々の書物が紹介されていく様は、教えられるところがいまだに多く、圧巻だ。なかでも迫力に満ちているのが、最終章「もう一つのルネサンス」だろう。本章は、いわば『本の神話学』のまとめの役割を担っており、「書物」というトポスを軸にしながら、ユダヤ文化論、ルネサンス論、新プラトン主義論などが総合的に論じられる本書の白眉だ。 「1-蒐集家の使命」では〈猟奇学者〉にしてユダヤ人・エドゥアルト・フックスとワルター・ベンヤミンの目指した「図像」蒐集による学問領域の再編が、ルネサンス期の古代研究における考古学と共通した役割を担っていることを指摘する。『自然魔術』を著したデッラ・ポルタの名前も、その系譜に位置づけられる。彼らはすべて、現実世界の多種多様な素材を蒐集し、それらにテーマと関連を与えて、書物というもうひとつの世界のなかに新しいものの見方を定着させていったのである。 それからすでに30年以上がたち、時代は二十一世紀へと変わった。その間もわたしたちが読むことのできる本は絶え間なく増え続け、選択の自由をはるかに圧倒しているほどだ。また、本書が書かれた当時は考えられもしなかった情報流通の形態=インターネットが登場し、書物の電子化など、「メディアのせめぎ合い」はまさに中心的な問題となっている。さて、二十一世紀の知のパースペクティブは今後どのように拓り開かれていくのだろうか。すくなくともワールブルクの翻訳書に対して、「悪魔祓いとしての翻訳」という愚行を犯さないようにしたいものだ。 by takahata: 2005.01.16 |
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