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失われた本を求めて
BOOK GUIDE vol.II

品切れ本を中心とした書評ページです。

エッセイ・評論 思想・芸術 文学

本の神話学

山口昌男

1971年7月30日 中央公論社刊 238ページ

目次
二十世紀後半の知的起源
1-思想史としての学問史 2-ピーター・ゲイの『ワイマール文化』 3-精神史の中のワールブルク文庫

ユダヤ人の知的情熱
1-ユダヤ人の知的環境 2-構造とかたち 3-知の存在形式としての亡命 4-受難と知的情熱

モーツァルトと「第三世界」
1-モーツァルトの世紀 2-二十世紀オペラのアルケオロジー 3-音楽的思考

「社会科学」としての芸能
1-政治とその分身 2-政治の論理と芸能の論理 3-シェイクスピア劇における芸能の論理  4-見世物小屋としての世界

もう一つのルネサンス
1-蒐集家の使命 2-世界の本とルネサンス 3-ルネサンスと本の世界  4カバラの伝統 ─ ゲーテ、フロイト、ボルヘス 5-知の越境者

補遺 物語作者たち
文献案内

本書は刊行当時は話題になったものの、それがすぐに売れ行きに結びつくこともなく、再版がでるまでに丸四年がかかっている。その後、中公文庫で入手できたが、最近は品切れとなったようだ。本書の文献案内のメモを手に、古書街を探索する大学生たちとすれ違った70年代はすでに遠のいてしまったけれど、知のガイドブックとしての有効性はいまだに衰えていないと思うのだが.....

文章のスタイルは過激に挑発的。というのは、沈滞気味の日本の読書界に刺激を与えて、新しい展望を切り開こうとする著者の熱い意思がみなぎっていたからだ。勇み足の瑕瑾もあるが、のちに「トリックスター論」をひっさげて、つづく80年代日本思想界をゆさぶった著者の、もっともやんちゃ坊主だった時期の文体がここにある。

第一章の「二十世紀後半の知的起源」では、ピーター・ゲイの『ワイマール文化』という翻訳書が、誤訳指摘の集中攻撃を浴びせられる。そして、こてんぱんに批判された『ワイマール文化』は、あえなく絶版に。しかし、版元のみすず書房も偉かった。ちゃんと別の翻訳者に新しい翻訳を依頼し、「新版」として出版し直したのだから。ところで、その誤訳箇所の例に挙げられていたのが、ワールブルク文庫とカッシーラーの出逢いをザクスルが描写した、あの有名な箇所だった。ワールブルク著作集が刊行されるに至った今日の目からみると、意外かも知れないが、ワールブルクって、誰?というのが、当時の大多数の状況だった。日本におけるワールブルク学派の業績の移植は、まさに本書が起爆剤となって始まったのだ。

また、「悪魔祓いのための ─ 例えばブランショなどの翻訳にみられる傾向 ─ 儀式としての翻訳が行事化し、翻訳=忘却といった悪循環が固定化した結果、このところ西欧の学問とわれわれの学問の間に、再びある種の断層が生じつつある.....」という指摘は、残念ながらいまだに有効ではないか。ブランショの『来るべき書物』などは、ぜひ新訳を期待したいところだし、『期待 忘却』(皮肉な題名ですねぇ)は、訳者豊崎光一氏の読み方とは別の非人称的な一面を秘めているはずだ。なにもフランス文学に限ったことではないが、外国語能力の向上に反比例するように、日本語表現力が貧困化の一途をたどり続けている....おっと、山口氏の口調が感染してしまったようだ。

こうして、ユダヤ人文化論、音楽文化論、演劇文化論と、山口氏の博覧強記によって数々の書物が紹介されていく様は、教えられるところがいまだに多く、圧巻だ。なかでも迫力に満ちているのが、最終章「もう一つのルネサンス」だろう。本章は、いわば『本の神話学』のまとめの役割を担っており、「書物」というトポスを軸にしながら、ユダヤ文化論、ルネサンス論、新プラトン主義論などが総合的に論じられる本書の白眉だ。

「1-蒐集家の使命」では〈猟奇学者〉にしてユダヤ人・エドゥアルト・フックスとワルター・ベンヤミンの目指した「図像」蒐集による学問領域の再編が、ルネサンス期の古代研究における考古学と共通した役割を担っていることを指摘する。『自然魔術』を著したデッラ・ポルタの名前も、その系譜に位置づけられる。彼らはすべて、現実世界の多種多様な素材を蒐集し、それらにテーマと関連を与えて、書物というもうひとつの世界のなかに新しいものの見方を定着させていったのである。
「2-世界の本とルネサンス」では、ルネサンス期を少し遡って、ニコラス・クザーヌスの思想の今日的意義について語られ、末尾においては、クザーヌスの説いた「人間の書いた書物とは区別される、自然と世界の『書物』という観念」について述べられる。特に、碩学クルティウスの『ヨーロッパ文学とラテン中世』から引用される以下の一節は、示唆的である。「全世界は一冊の本かまたはひとつの図書館である。その中ではページはわれわれの足でめくられなくてはならないし、その本は“巡礼の歩みのごとく”読まれなければならない」。こうして、話題はいよいよ盛期フィレンツェ・ルネサンスへと移っていく。
「3-ルネサンスと本の世界」では、ピコ・デッラ・ミランドラの関心領域について詳述される。特に、ピコがエリア・デル・メディゴというユダヤ人学者を師として、さまざまな貴重な書籍を翻訳してもらったり、ヘブライ語の手ほどきを受けてカバラ教典のなかでも重要な『ゾーハル』を入手した経緯が紹介される。ピコは、先に触れたクザーヌスと同じく、稀代の蔵書家であった。このように、本の蒐集がそのまま思想的な営みであったことを証すために、さらにはイングランドのジョン・ディーの生涯がたどられる。
「4-カバラの伝統 ─ ゲーテ、フロイト、ボルヘス」では、ゲーテと新プラトニズムおよびカバラ的伝統、あるいはフロイトとカバラ的伝統の深い関係性が、最初に指摘される。もちろん、世界という図書館の館長と目されたボルヘスにも、「世界は一冊の書物である」というユダヤ的な書物理解が心底しみこんでいる。そして、著者はこう締めくくる。「こういった書物を持つ民がいて、その民の〈書〉の体験が、一度はルネサンス、他の一度はワイマールを軸とした二十世紀という二つの時期において、決定的な寄与を行い、二十世紀の知的危機と破綻の回避が、そういった寄与に負っているということを知るだけでも、われわれの知的風土と学問の基礎にこれまでになかった見透しがひらけてくるはずである」。
「5-知の越境者」 ここで、話題は第一章で取りあげられたアビ・ワールブルクその人に再び立ち返る。「こんな大して知られない人物の事蹟にどうしてこだわるのかと問われるかもしれない。しかし、神話=象徴学、図像学(イコノロジー)、ルネサンス精神史、知の探求の形式としての蒐集、世界の演劇、ユダヤ的知性、越境的知性等々の問題が囲繞しているとしたら関心を寄せない方が難しいということになる。.....二十世紀後半の知的探求において、書物と書物を越える表現のメディアのせめぎ合いは、いっそう中心的なテーマとなるであろう」。

それからすでに30年以上がたち、時代は二十一世紀へと変わった。その間もわたしたちが読むことのできる本は絶え間なく増え続け、選択の自由をはるかに圧倒しているほどだ。また、本書が書かれた当時は考えられもしなかった情報流通の形態=インターネットが登場し、書物の電子化など、「メディアのせめぎ合い」はまさに中心的な問題となっている。さて、二十一世紀の知のパースペクティブは今後どのように拓り開かれていくのだろうか。すくなくともワールブルクの翻訳書に対して、「悪魔祓いとしての翻訳」という愚行を犯さないようにしたいものだ。

by takahata: 2005.01.16

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本の神話学_山口昌男

思想・芸術篇

01『プラトンに関する十一章』アラン
02『第一書房 長谷川巳之吉』
03『千利休』唐木順三
04『天使のおそれ』G. ベイトソン
05『英国のプラトン・ルネサンス』
          カッシーラー

06『ルネサンス 人と思想』清水純一
07『奇想の系譜』辻 惟雄
08『本の神話学』山口昌男
09『日本美術の流れ』源 豊宗
10『日本美術の表情』辻 惟雄
11『神々の再生』伊藤博明