BOOK GUIDE vol.II | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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品切れ本を中心とした書評ページです。 |
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清水純一著 近藤恒一編 1994年12月9日発行 平凡社刊 320ページ 目次 清水純一という名前は、ある年齢以上のひとたちにとって、懐かしい名前ではないだろうか。『ルネサンスの偉大と退廃 ── ブルーノの生涯と思想』(岩波新書)の著者として、また『無限、宇宙と諸世界について』(世界古典文庫、現代思潮社、のち岩波文庫に収録)の訳者として、清水氏の仕事に魅せられた人は多いと思われる。氏は惜しくも88年に64歳という若さで亡くなられたが、本書は氏が生前に書き残した原稿を集めて編まれた遺稿集である。 戦後の第一回イタリア政府の給費留学生に選ばれ、イタリアで世界的に著名なルネサンス学者ガレン教授に師事した清水氏は、本格的なルネサンス期の人物評伝を日本で初めて完成させた。『ジョルダーノ・ブルーノの研究』(創文社)がそれで、いまでは古書店にも滅多に現れることのない幻の名著だ。ブルーノと言えば、『ジョルダーノ・ブルーノと ヘルメス的伝統』の著者、フランセス・イェーツの名前がただちに思い出されるが、清水氏が留学中にロンドンのウォーバーグ研究所で研究滞在していたときに、ふたりはかなり親しくなったらしい。力量に溢れた研究者同士の豊かな精神的交流があったことだろう。ところで、『ジョルダーノ・ブルーノと ヘルメス的伝統』と言えば、イェーツのほとんどの著作が翻訳紹介されたにもかかわらず、ついに今日に至るまで翻訳が現れなかったが、不思議な話もあったものだ。私はとうとう待ちきれずに原書で読んでしまったが、あらゆる資料を自在に駆使して歴史の謎を的確に解き明かしていくイェーツ女史の筆致には、なにか上質の推理小説を読んでいるような面白さがあった。しかつめらしい論文スタイルではなく、躍動感のある文体で精神のドラマを描いているので、興味のある方はぜひ、原著を手にとっていただきたい。そのためにも、本書『ルネサンス 人と思想』の第一部の内容を把握しておくと、読解の早さと理解の深さは格段に向上するはずだ。 清水氏の学問姿勢と著述については、巻末の近藤恒一氏の紹介文に詳しいので、ここでは繰り返さない。ただ、近藤氏によると、清水氏の早すぎた最晩年において、その関心はルネサンス期に生きた人々の姿を日本語で残すことにあったという。残念なことに、それは未完に終わってしまったが、それら貴重な遺稿が、本書の第三部に「ルネサンス人の肖像」としてまとめられていることはせめてもの慰めと言えようか。本の歴史に興味のあるわたしとしては、パッラ・ストロッツィ やヴェスパジアーノ・ダ・ビスティッチ の紹介文が印象深く、記憶にも鮮明に焼きついている。 パッラ・ストロッツィ は14世紀の後半にフィレンツェの名家に生まれた。ギリシア語・ラテン語が堪能で、その豊かな教養と清廉かつ温厚な人柄によって多大な人望を集めていたという。14世紀末頃、フィレンツェにギリシア人学者クリュソロラスが招かれて以後、フィレンツェやパドヴァではギリシア語原典による古典研究が次第に盛んとなり、プラトンやアリストテレスの本格的研究が、やがて15世紀後半のフィレンツェ・ルネサンスを将来する。そしてパッラ・ストロッツィこそは、クリュソロラスの招聘のパトロンであった。彼のこの功績がなければ、以後の世界の文化は今日とは違ったかたちになっていたかもしれない。しかし、運命はこの当代随一の文化人を徹底的に翻弄する。1933年、頭角を現しつつあったメディチ家を追放しようとする政変が起こる。しかし、平和主義者のパッラは動かず中立を保った。翌年になってコジモ・デ・メディチはフィレンツェに凱旋し、権力を一手に掌握する。そして、人望の厚かったパッラは、結果的にメディチ側に与したのもかかわらず危険人物と見なされ、パドヴァに追放されてしまう。以後、1462年に90歳で他界するまで、彼はついにフィレンツェに帰ることを許されなかった。その間に優秀な息子たちも次々と他界し、彼の晩年は深い宗教的諦念に彩られていたらしい。 パドヴァでの流刑時代のパッラはしかし、ギリシアからイタリアに渡来してくる学者たちへの援助を引きつづき怠らなかった。クリュソロラス、ベッサリオン、プレトン、アルギュロプロスなどの錚々たるビザンティン知識人が、メディチ家との関係が壊れたあとのパッラ邸に集まったという。特にアルギュロプロスは、フィチーノに対しプラトンやプロティノスの思想を講義したと考えられるので、パッラの無私のパトロン精神は、メディチ家以上の精神的な貢献をフィレンツェ・ルネサンスに与えたようだ。清水氏のパッラに対する深い思いやりに満ちた描写が心に残る評伝だ。 さて、このようにパッラ・ストロッツィという文化人の姿を伝えてくれる清水氏は、その資料となった『十五世紀有名人伝』の著者、ヴェスパジアーノ・ダ・ビスティッチについて語り始める。ヴェスパジアーノは15世紀のフィレンツェで手稿本を制作・販売する書籍商だった人物。著書の『十五世紀有名人伝』はヴェスパジアーノと本を通じて関わりのあった聖職者、政治家や文化人たちの想い出を書きしるしたもので、ブルクハルトはこの本を読んだことがきっかけとなって、『イタリアにおけるルネサンス文化』を生みだしたという。『十五世紀有名人伝』は、その抄訳が2000年に刊行されたので、興味のある方はそちらを参照できる(『ルネサンスを彩った人びと』臨川書店刊)。 また、英文の全訳も入手が容易だ。 手稿本の書店主として、また文化サロンの主として、隆盛を極めたヴェスパジアーノであったが、1480年頃には廃業して田舎に隠遁してしまう。なぜか。時代のメディアが手稿本から印刷本へと移り変わったためだった。グーテンベルクが聖書を印刷したのが1440年のことで、それは1450年頃には実用段階に入り、1470年代になると広く普及し始めたらしい。そのわずか10年後、もはや手稿本という出版形式はほとんど息の根を絶たれてしまったのだ。昨今の活字からDTP、WEBへの移行よりもドラスティックなメディア変化が起こったのだ。最後に、ヴェスパジアーノについての著者の感慨を引用しておこう。 「なかでもストロッツィ家のパッラに関する文章は、この筆者としては珍しく感傷的でさえあり、パッラの悲運をいたむ筆者の悲しみは読者の心を打つ。そしてパッラやマネッティがメディチ家から追放される運命にあったことを考えると、ヴェスパジアーノは当然メディチ家に対しては批判的であったのではないかと考えたくなる。しかし控え目なこの筆者は、事実を淡々と述べ記すのみであり、政治的イデオロギーには巻き込まれようとしない。(略)ただ『芳しからぬ手段で財をなしたことを恥じてか、教会や修道院の建築など、聖なることがらには惜しみなく散財した』という、どうともとれる一言を除いては」(本書 p.278) by takahata: 2004.12.17 |
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『ジョルダーノ・ブルーノの研究』 |
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『ジョルダーノ・ブルーノと ヘルメス的伝統』 |
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『ルネサンスを彩った人びと』 |
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