エッセイ・評論 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
BOOK GUIDE vol.I | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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品切れ本を中心とした書評ページです。 |
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先師先人
竹之内静雄 1982年6月20日発行 新潮社刊 272ページ 目次 最初に、著者・竹之内静雄氏の経歴にふれておこう。生年は1913年。1940年、京都帝国大学文学部卒業。同年、河出書房に入社。翌41年、同社を退社して、創業8カ月の筑摩書房に入社。1966年、創業者の古田晁が社長の座を去ると、後任として第二代社長に就任。1972年、社長在職6年の後、退職。惜しいことに数年前に亡くなられた。 本書は、著者が京都で過ごした学生時代、そして出版人として過ごした30有余年の間に、邂逅したさまざまな人物の思い出を、清明な文体で綴ったもの。表現は平明ながらも、ときにユーモアをたたえ、ときに言い難い余韻を残す。著者は旧制高校時代に、詩人・竹内勝太郎と出逢い師事する。師と仰いだ竹内が不慮の事故で亡くなるまでの、短いが充実した三年の日々。それを著者は、単なる回顧ではなく、竹内の遺著から自在にことばを引用しながら、師が生成させようとした芸術哲学を丹念にたどり、ひとりの芸術家の内面的成長を浮き彫りにする。では、竹之内氏にとって、師と慕うひとを語るとは、どいうことか。 「まことに、ある人間が、五百年一千年あるいは二千年前であろうと、ある生き方をもって生きていたという事実が、私たちにとって、今生きていることと同じ意味をもち、どこまでも価値の失われつくす自己がそれによって生きかえらされる、ということが、ないであろうか。竹内勝太郎自身、その「ある人」の一人であった。その意味でこそ、彼の著作と同じように、彼の伝記が知られてもよい。だが、全く知られなくてもよい。これを伝えるか伝えぬかは、これを伝えるあるいは伝えぬ人間の、こちらの生き方である」(本書p.20) この覚悟、師の人柄や業績を伝えることは、伝えようとする人間の生き方の問題であるという潔さが、竹之内氏の文章の骨格となっている。そしてこの高い志をもって書かれるからこそ、竹内勝太郎だけではなく、本書に登場するさまざまな一流人たちの生き方が、味わい深い貴酒のように染みわたってくるのだろう。まさに本書に収録された諸篇は、人物回想のスタイルを借りた哲学論であり、あるいは芸術論、宗教論でもある。また、戦後の出版文化論としても貴重な史料となっており、「陰翳(かげ)ふかき人 ── 落合太郎博士」では、竹之内氏の職業人としての自伝的要素が色濃い。 「唐木順三の問いに私は答えた。 「1971年10月30日、ポウル・ヴァレリイ生誕満百年の記念日に三度目の刊行が補巻まで終って『ヴァレリイ全集』ははじめて全巻の完結を見た。最初の企画から三十年を経ていた。* また、「双視の人 ── 吉川幸次郎先生」では、良き師に出逢える幸福とは、偶然に与えられるものではなく、それを見極められる人物によって撰びとられるものだということが、いまさらのように痛感させられる。 ところで、林達夫と久野収の対談集『思想のドラマトゥルギー』のなかで、本書収録の「田辺元博士」(初出は月刊文藝春秋)が話題にのぼる。そのとき、林達夫はこう感嘆している。「....最後のクライマックスに饅頭の話がある。とても面目躍如として生きているんだ、文章が。....あの文章、ただものではない」。 最後に、その部分を引用しておこう。 「 昭和二十六年九月、田辺博士夫人がなくなった。会社からは、唐木順三、古田晁、井上達三ほか何人か、葬儀とお世話のため北軽井沢の山荘へおもむいた。その前後五年あまり、筑摩は貧窮の底にあえぎ、私たちは連日、手形決済の金ぐりに苦しんでいた。すると、 本書のほか、その続編とも言うべき『先知先哲』(1992年6月 新潮社刊)がある。なかでも「南海の隠逸 小島祐馬先生」は圧巻。ともに後年、講談社文芸文庫に収められたが現在品切れ中。 by takahata: 2004.11.30 |
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