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失われた本を求めて
BOOK GUIDE vol.I

品切れ本を中心とした書評ページです。

エッセイ・評論 思想・芸術 文学

異端審問

ホルヘ・ルイス・ボルヘス

1982年5月30日発行 晶文社刊 344ページ

目次
城壁と書物/パスカルの球体/コウルリッジの花/コウルリッジの夢/時間とJ.W.ダン/天地創造とP.H.ゴス/アメリコ・カストロ博士の驚き/カリエゴ覚書/アルゼンチン国民の不幸な個人主義/ケベード/『ドン・キホーテ』の部分的魅力/ナサニエル・ホーソン/ウォールト・ホイットマン覚書/象徴としてのヴァレリー/エドワード・フィッツジェラルドの謎/オスカー・ワイルドについて/チェスタトンについて/初期のウェルズ/ジョン・ダンの『ビアタナトス』/パスカル/夢の邂逅/ジョン・ウィルキンズの分析言語/カフカとその先駆者たち/亀の化身たち/書物崇拝について/キーツの小夜鳴鳥/謎の鏡/二冊の本/一九四四年八月二十三日に対する註解/ウィリアム・ベックフォードの『ヴァセック』について/ 『深紅の大地』について/有人から無人へ/伝説の諸型/アレゴリーから小説へ/ラーヤモンの無知/バーナード・ショーに関する(に向けての)覚書/歴史の謙虚さ/新時間否認論/エピローグ

コウルリッジの夢

ボルヘスはイギリス・ロマン派の諸作家を愛読していた。とくにコウルリッジがお気に入りの文学者だったようだ。本書にもコウルリッジの名前が冠された二篇の小品が収められている。それら「コウルリッジの花」と「コウルリッジの夢」は、ボルヘス好みの「夢」がテーマの名エッセイだ。

「コウルリッジの花」はヴァレリーの引用から始まる。「文学の歴史とは、個々の作家たちの偶発的な作品や出来事の寄せ集めであってはならない。それは、文学の生産者としての《精神》の歴史でなくてはならない」。この言葉のあとで、ボルヘスはさりげなく、「《精神》がこのような意見を述べたのはこれが初めてではない」と、付け加える。ここで唐突に《精神》と名指された主語こそ、ボルヘスが終生追い求めつづけた時間と空間を超えて存在する《何者か》であり、本書『異端審問』という変奏曲集の主題なのだ。
 さて、コウルリッジはこんなことを書いているという。「ある男が夢の中で楽園を通り過ぎる。男はその魂がたしかにそこに行ったというしるしに、一本の花を授けられる。男は目を醒まして、手の中にその花を見る ── ああ、もしそんなことが起こったとしたら!」。夢幻と現実との越境的な交感、そして眩暈 ── このきわめてボルヘス的テーマは、続く「コウルリッジの夢」の章において、さらに推理小説のように掘り下げられていく。

1797年の夏、ときに25歳の詩人コウルリッジは体調を崩し、とある田舎家に引きこもった暮らしをしていた。ある日、気分がすぐれなかったので、鎮痛剤として阿片を服用したが、椅子に座ったまま眠りこんでしまった。かれは眠りに落ちるまえ、『パーチャス廻国記』という17世紀に編纂された旅行記の一節を読んでいた。 13世紀の元の皇帝クビライ・カーン(日本では元寇で名高い)が、王宮を造営する情景の描写がそこにはあった。3時間後にコウルリッジは目を醒ましたが、その間にみた夢のなかで、イメージも鮮やかな二、三百行の詩を作り上げていたことを、はっきりと覚えていた。さっそくコウルリッジはその詩を書き留め始める。それが今に残っている〈クーブラ・カーン〉という詩の断章だ。しかし、間のわるいことに不意の来客があった。一時間ほどして客が帰ったあと、かれは詩のつづきを書こうとして、愕然とする。夢の記憶は川面から消えていく波紋のように、あとかたもなく消え去っていたのだった。
 英語で書かれた最高の音楽と讃えられる詩作品〈クーブラ・カーン〉誕生にまつわる、この有名な夢の経緯は、作品の前書きとしてコウルリッジ自身が書き残したものだ(1797年は詩人の記憶違いで実際は1798年のことらしい)。この逸話の紹介のあと、これと奇妙な符号の一致が見られる第二の事件についてボルヘスはこう述べる。

コウルリッジが夢の顛末を1816年に公表してから20年後、『世界総合史』というペルシア文学が、初めて西洋の言語に翻訳されパリで刊行された。それは14世紀にラシード・ウッディーンが著した本だった。その中に次の一行がある ── 「クビライは夢に見て記憶にとどめた設計図に従い、上都の東に王宮を造営した」。 つまり、18世紀に英国詩人の見た夢は、蒙古皇帝の宮殿にまつわる詩として結晶して現実界に残されたが、そもそも蒙古皇帝が当の宮殿を13世紀に建てたのは、やはり夢がきっかけだったからだというのだ。そして、コウルリッジがこの事実を知っていた可能性はまず考えられない。ボルヘスは、あたかもチェスタートンの創造した探偵物語の主人公ゲイルのような語り口で、ふたつの《夢》という操作の類似性から、それらを実行するひとつの主体(前章の言葉で言うと《精神》)を幻視し、こう推理を続ける。
「二つの夢の類似性が一つの計画を露わにする。関係した厖大な長さの時間がその超人的実行者を露わにする。その目的を探ることは無謀だが、彼がまだその目的を達していないことは断言できるだろう」。

ボルヘスはこうして、第三の夢をも予言する。最初に選ばれた人間は夢から宮殿の幻を授けられ、それを建てた。二番目に選ばれた人間は、その宮殿の詩を授けられた。計画が失敗におわらないとすれば、いまから数世紀のちに〈クーブラ・カーン〉を読んで、ある夜、大理石像か音楽を夢見る者が現れるだろう。
「まだ人間に示されていない一つの原型、ホワイトヘッドのことばを使えば《永遠の客体》が、徐々にその姿を世界に現しつつあるのかもしれない」 ── 含蓄深いこの言葉とともにボルヘスは「コウルリッジの夢」を締めくくっている。
 ちなみにこの「コウルリッジの夢」はボルヘスのお気に入りらしく、夢に関する記述のアンソロジー『夢の本』にも収録されている。

〈夢〉もまた夢みる

さて、コウルリッジの〈クーブラ・カーン〉については、わが国の英国ロマン派文学研究者の故・由良君美氏と故・高橋康也氏がそれぞれに秀逸卓抜な「読み」を短いエッセイに遺している。前者は『椿説泰西浪漫派文学談義』所収の「ヘルマフロディトスの詩学」、後者は『エクスタシーの系譜』所収の「夜と昼の結婚」だ。
 そして、ボルヘスの「コウルリッジの夢」に遠く響き合うようなコウルリッジ自身の言葉が、高橋氏の「夜と昼の結婚」に引用されているので、孫引きになるが以下に写しておきたい。

「ぼくの思想がこれほどの高み(詩『この菩提樹の木陰をわが牢獄として』を書きあげた想像力の勝利をさす)にまで高揚され精神化されるのは、実に滅多にないことなのだ。むしろぼくは婆羅門(バラモン0的信条にくみすることが多い。......ぼくの願いは、ヒンドゥ教のヴィシヌ神のごとく、蓮のうてなに揺られて果てしなき海原をたゆたい、百万年目に眼をさますこと、それももう百万年眠るのだと確認するためにだけほんの二、三分眼をさますことだ」(Letter to Thelwall, 4 Oct. 1797)。

コウルリッジが〈クーブラ・カーン〉を夢で授かる一年前に書かれた書簡の一節だ。奇妙な連想かもしれないが、この願望はボルヘスの想定する《精神》=超人的実行者それ自身のせりふのようにも聞こえないだろうか? もう一度、ボルヘスの言葉をここで繰り返しておこう。
「関係した厖大な長さの時間がその超人的実行者を露わにする。その目的を探ることは無謀だが、彼がまだその目的を達していないことは断言できるだろう」。

ともあれ、コウルリッジの言葉から、ボルヘスの推理に新たな状況証拠を付け加えることができよう。つまり、1798年に、イデア界のひとつの《精神》が、百万年の眠りにはさまれた数分間だけ覚醒したのだ。その覚醒が、現実界では反転して睡眠中の夢となって現れ、コウルリッジに〈クーブラ・カーン〉を授けたとしたら....。あるいは、コウルリッジは夢を見たが、百万年ごとに数分だけ覚醒する《精神》になった夢だったとしたら....。荘子の胡蝶の夢ではないが、夢を見ているのは誰なのだろう? あるいは、夢見ているコウルリッジを夢見ているコウルリッジは.....、この入れ子構造を、ボルヘスならなんと解釈するだろうか。

ある対談のなかで、書物の世界で起こる偶然の一致に惹きつけられる性癖を、ボルヘスは次のように語っている。

バーギン 「実在は対称(シンメトリー)を愛好する」とおっしゃったことがありますね。
ボルヘス ええ、あります。それが真実です。
バーギン そうおっしゃるのは、ご自分の経験からくるのですか。
ボルヘス ええ。というか、たぶん私は対称に気をつけているからです。
バーギン 対称、鏡、人生における迷宮を探し求めてばかりいるからと、以前にご自分を批評なさったことがありますね。本当にそうお感じでしょうか、それとも....
ボルヘス いや、そういう感じはします。しかし神秘的なはかりごとという観念を伴うようなさまざまの偶然の一致が私たちに与えられているのではありませんか? 偶然の一致が与えられることで、私たちはある形式(パターン)が存在するという気がする ── 人生にはある形式が存在する、いろいろなことが何かを意味している、と。
(『ボルヘスとの対話』より)

碩学クルティウスも『読書日記』という小著のなかで、同じような感慨を述べていたような覚えがある。ともあれ、たまに読み返すたびになにがしかの新しいヒントを、このボルヘスのエッセイ集は与えてくれる。また最後の一章は、ボルヘスの時間にたいするオブセッションを、詩人らしい文章で手早く素描していて忘れがたい。特に以下に掲げる最後の一節は、小説作品では巧妙に隠蔽されているボルヘスの諦念が滲み出てはいないか。

「しかし、しかし ── 時間の連続を否定し、自我を否定し、天文学の宇宙を否定することは、あからさまな絶望とひそやかな慰めである。スウェーデンボリの地獄やチベット神話の地獄と違って、われわれの運命はその非現実性ゆえに恐ろしいのではない。不可逆不変であるがゆえに恐ろしいのだ。時間はわたしを作りなしてい材料である。時間はわたしを運び去る川であるが、川はわたしだ。時間はわたしを殺す虎であるが、虎はわたしだ。時間はわたしを滅ぼす火であるが、火はわたしだ。不幸なことに世界は現実であり、不幸なことにわたしはボルヘスである。」
「新時間否認論」

by takahata: 2005.04.07

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異端審問_ボルヘス

エッセイ・評論篇

01『先師先人』竹之内静雄
02『ユルスナールの靴』須賀敦子
03『四百字のデッサン』野見山暁治
04『はじめもなく終りもない』宮脇愛子
05『光る源氏の物語』大野晋・丸谷才一
06『歌の王朝』竹西寛子
07『メモワール・ア・巴里』村上香住子
08『復興期の精神』花田清輝
09『胡桃の中の世界』澁澤龍彦
10『椿説泰西浪曼派文学談義』由良君美
11『異端審問』ボルヘス
12『鏡のテオーリア』多田智満子
13『あぢさゐ供養頌』村松定孝

『夢の本』_ボルヘス
『夢の本』ボルヘス 国書刊行会刊
ボルヘスとの対話
『ボルヘスとの対話』リチャード・バーギン
 晶文社刊