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失われた本を求めて
BOOK GUIDE vol.I

エッセイ・評論 思想・芸術 文学

品切れ本を中心とした書評ページです。

あぢさゐ供養頌 村松定孝

あぢさゐ供養頌 ─わが泉鏡花─

村松定孝

1988年6月5日発行 新潮社刊 190ページ

目次
序章 麹町下六番町訪問/ 第一章 『捐館記事』前後/ 第二章 初恋の茂への手紙/ 第三章 好敵手樋口一葉の死/ 第四章 青春の血と慵斎山房/ 第五章 寺木ドクトル昔語り/ 第六章 柳暗花明への招待/ 第七章 芥川龍之介を哭す/ 第八章 晩年の鏡花とその周辺/ 第九章 清方・雪岱との親好/ 第十章 怨念と魔界の美学/ 終章 紫陽花は母の香り

著者は鏡花研究の第一人者として名高い。研究者としてながく鏡花文学の賞揚に努めてきた人が、自らの学究人生の歩みと鏡花文学解明の進捗をない交ぜにしながら、一種、私小説のような奇妙な味わいの一編に仕立て上げたのが本書である。鏡花本人はもとより、その縁に連なるさまざまな人物が登場し、鏡花文学の成り立ちの秘密を垣間見させてくれる。
 本書の内容を簡単にたどっておこう。序章は、1938(昭和13)年、当時、早稲田の学生であった著者が、晩年の鏡花を六番町の自宅に訪ねた際の回想から始まる。この対面から一年後に鏡花は世を去るのだが、その葬儀の顛末を描いたのが続く第一章。捐館とは「高貴な人の死」の意。そして第二章は、著者が鏡花をテーマとする卒業論文を執筆するために金沢へ調査旅行し、『照葉狂言』のお雪のモデルと目される湯浅茂と対面する様子が回想される。
 第三章は作家としてのデビューを果たした直後の鏡花が、樋口一葉の『たけくらべ』に衝撃的な影響を受け、交遊を持つに至った経緯が述べられる。また、森鴎外がアンデルセンの『即興詩人』を翻訳するにあたって編み出した雅文体から、鏡花が多大な影響を受けたことも詳述される。第四章では、著者が1941(昭和16)年に西村伊作の文化学院に職を得て、教授陣のひとりであった慵斎山房主人・佐藤春夫と面識を得る顛末が語られる。その佐藤春夫から紹介されて出会うことになるのが、鏡花の直弟子のひとり寺木定芳で、第五章ではその寺木氏が語り手となって、鏡花と後の夫人すず、そして恩師・尾崎紅葉との愛憎渦巻く確執が述べられていく。
 鏡花文学には二つの大きな主調音がある。「苦界に身を沈めた女への同情」と、そんな女性たちを苦しめる「権威を振り回す横暴な男たちへの憤り」である。鏡花が得意とした粋筋の人情話は、この両者があわさって構成され、それが舞台化されると多くの子女の涙をしぼる人気作品となった。また、「人間世界への憤りと、その裏返しとしての蔑視」が強く打ち出されると、『夜叉ケ池』や『天守物語』などの怪異ものの名作となって結実した。これらの「弱きものへの同情」と「強きものへの反撥」がなぜに生まれたのか。その謎が解き明かされていくのが、第六章であり、本書の重要な核心となっている。

それにしても、著者の村松氏はかなり耳のよい人のようだ。というのは、本書に登場する鏡花本人の江戸前風の言葉遣い、芸者時代の名残を色濃くとどめたすず未亡人の口調、あるいは鏡花と交遊のあったさまざまな人々の戦前期の東京の話し言葉などが、まるで本人がそこで喋っているかのように活写されているからだ。

ところで、鏡花は金沢生まれなのにもかかわらず、まるで江戸っ児のような言葉遣いを身につけていた。 生涯、金沢弁の調子が抜けなかった室生犀星とは大きな違いである。なぜだろう。その秘密は鏡花の母親の生い立ちに大きな関係がある。母の中田鈴は1854(安政元)年に江戸で出生している。そして1867(慶応3)年、維新戦争で騒然とした江戸を後にして、中田一家は金沢へと移住する。鈴が13歳の時のことであり、文字通りの都落ちであった。やがて17歳になり、泉清次と結婚、2年後の1873(明治6)年に鏡花が生まれている。しかし悲しいことに1882(明治15)年、母・鈴は9歳になる鏡花を遺して他界した。こうして、ものごころがつく3歳頃から9歳まで、鏡花は母親の江戸言葉をもっとも親密な言葉として聞き育ったのだった。テレビ・電話はもちろん存在せず、鉄道さえ通じていなかった辺境の地・金沢にあって、希有なことに、鏡花は江戸弁と金沢弁のバイリンガルで成長したことになる。
 後年、鏡花の話し言葉は、「東京人よりも東京人らしい」調子になりおおせた。たとえば、本書の13ページには次のような描写がある。

「西洋の小説では誰のをおたしなみで?」
「メリメが好きです」
「これは、うれしい。こちらもプロスペル・メリメだ」
 ついと座を立つと、そそくさと小走りに、隣室へ。朝顔の花弁を散らした図柄の押入の引戸を開けると、なかは上下二段とも、ぎっしり書籍の山。その山積みから、目的の一冊をみつけるのに、さして手間どらなかった。取り出してこられたのは、まさしく明治のフランス文学者・石川剛の訳書『シャルル十一世の幻想』であった。ぱらぱらと頁を繰って、ラストの一節を小声で朗読された。
「ねえ、この亡霊が眼前から消えうせたあとに〈ただシャルルの上履に一点の血痕をとどめた〉なんてとこは、巧(うも)うがすな。なかなか、こうは書けやせんや。こう、こなくっちゃあ……」

東京人になりきることは、鏡花にとっては、亡き母の面影に一歩でも近づくこうとする意識的・無意識的な生き方であった。鏡花が生涯にわたって示した亡き母への思慕は有名だが、その強い憧れは母の言葉遣い・江戸弁へと究極的には向けられていた、私はそう考える。

鏡花の生まれ育った下新町、橋場町(はしばちょう)辺りは明治期の金沢の中心的繁華街であった。現在、生家跡には泉鏡花記念館が建つ。そのすぐそばを流れる浅野川の向こう側には色街と寺院群が広がっている。いまでは金沢の観光名所の顔として有名になった町並み「東の郭(くるわ)街」がそれである。その背後には卯辰山(金沢の住民は「向かい山」と呼び習わしている)という小高い山がそびえ、麓の賑わいとは対照的に、昼でも緑の樹蔭のほの暗い独特の雰囲気を漂わせている。
 生家のあった川岸の方に戻ると、明治期、その界隈には見せ物小屋が蝟集して繁華をきわめていたという。いまでは「瀧の白糸碑」がひっそりと佇むだけで寂れているが、昭和40年代までは数件の映画館があって、遊興街の面影をとどめていた。

すでに述べたように、鏡花の小説世界は粋筋の人情ものと怪異ものという二つの世界の集合としてとらえられるが、前者の代表作『婦系図』『日本橋』などは、舞台は東京であっても、意外に金沢の出生地辺りに共通する雰囲気をあわせもつようだ。日夏耿之助が「名人鏡花芸」という評論のなかで「江戸のやうな田舎、田舎のやうな江戸、これが鏡花世界である」と指摘しているのは、けだし名言といえる。  

by takahata: 2006.05.28

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エッセイ・評論篇

01『先師先人』竹之内静雄
02『ユルスナールの靴』須賀敦子
03『四百字のデッサン』野見山暁治
04『はじめもなく終りもない』宮脇愛子
05『光る源氏の物語』大野晋・丸谷才一
06『歌の王朝』竹西寛子
07『メモワール・ア・巴里』村上香住子
08『復興期の精神』花田清輝
09『胡桃の中の世界』澁澤龍彦
10『椿説泰西浪曼派文学談義』由良君美
11『異端審問』ボルヘス
12『鏡のテオーリア』多田智満子
13『あぢさゐ供養頌』村松定孝

泉鏡花記念館

鏡花の生家跡には「泉鏡花記念館」がある。

金沢、浅野川大橋

橋場町と東の郭街を隔てる浅野川。背景の小高い山が卯辰山。

金沢、東の郭街

東の郭街。金沢の観光スポットとして有名な一画だが、大人の社交場としても現役。

瀧の白糸碑

浅野川沿いの梅の橋のたもとにある「瀧の白糸碑」。『義血侠血』の舞台となった場所に立つ。