BOOK GUIDE vol.I | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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品切れ本を中心とした書評ページです。 |
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村松定孝 1988年6月5日発行 新潮社刊 190ページ 目次 著者は鏡花研究の第一人者として名高い。研究者としてながく鏡花文学の賞揚に努めてきた人が、自らの学究人生の歩みと鏡花文学解明の進捗をない交ぜにしながら、一種、私小説のような奇妙な味わいの一編に仕立て上げたのが本書である。鏡花本人はもとより、その縁に連なるさまざまな人物が登場し、鏡花文学の成り立ちの秘密を垣間見させてくれる。 それにしても、著者の村松氏はかなり耳のよい人のようだ。というのは、本書に登場する鏡花本人の江戸前風の言葉遣い、芸者時代の名残を色濃くとどめたすず未亡人の口調、あるいは鏡花と交遊のあったさまざまな人々の戦前期の東京の話し言葉などが、まるで本人がそこで喋っているかのように活写されているからだ。 ところで、鏡花は金沢生まれなのにもかかわらず、まるで江戸っ児のような言葉遣いを身につけていた。 生涯、金沢弁の調子が抜けなかった室生犀星とは大きな違いである。なぜだろう。その秘密は鏡花の母親の生い立ちに大きな関係がある。母の中田鈴は1854(安政元)年に江戸で出生している。そして1867(慶応3)年、維新戦争で騒然とした江戸を後にして、中田一家は金沢へと移住する。鈴が13歳の時のことであり、文字通りの都落ちであった。やがて17歳になり、泉清次と結婚、2年後の1873(明治6)年に鏡花が生まれている。しかし悲しいことに1882(明治15)年、母・鈴は9歳になる鏡花を遺して他界した。こうして、ものごころがつく3歳頃から9歳まで、鏡花は母親の江戸言葉をもっとも親密な言葉として聞き育ったのだった。テレビ・電話はもちろん存在せず、鉄道さえ通じていなかった辺境の地・金沢にあって、希有なことに、鏡花は江戸弁と金沢弁のバイリンガルで成長したことになる。 「西洋の小説では誰のをおたしなみで?」 東京人になりきることは、鏡花にとっては、亡き母の面影に一歩でも近づくこうとする意識的・無意識的な生き方であった。鏡花が生涯にわたって示した亡き母への思慕は有名だが、その強い憧れは母の言葉遣い・江戸弁へと究極的には向けられていた、私はそう考える。 鏡花の生まれ育った下新町、橋場町(はしばちょう)辺りは明治期の金沢の中心的繁華街であった。現在、生家跡には泉鏡花記念館が建つ。そのすぐそばを流れる浅野川の向こう側には色街と寺院群が広がっている。いまでは金沢の観光名所の顔として有名になった町並み「東の郭(くるわ)街」がそれである。その背後には卯辰山(金沢の住民は「向かい山」と呼び習わしている)という小高い山がそびえ、麓の賑わいとは対照的に、昼でも緑の樹蔭のほの暗い独特の雰囲気を漂わせている。 すでに述べたように、鏡花の小説世界は粋筋の人情ものと怪異ものという二つの世界の集合としてとらえられるが、前者の代表作『婦系図』『日本橋』などは、舞台は東京であっても、意外に金沢の出生地辺りに共通する雰囲気をあわせもつようだ。日夏耿之助が「名人鏡花芸」という評論のなかで「江戸のやうな田舎、田舎のやうな江戸、これが鏡花世界である」と指摘しているのは、けだし名言といえる。 by takahata: 2006.05.28 |
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鏡花の生家跡には「泉鏡花記念館」がある。 |
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橋場町と東の郭街を隔てる浅野川。背景の小高い山が卯辰山。 |
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東の郭街。金沢の観光スポットとして有名な一画だが、大人の社交場としても現役。 |
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浅野川沿いの梅の橋のたもとにある「瀧の白糸碑」。『義血侠血』の舞台となった場所に立つ。 |
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