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失われた本を求めて
BOOK GUIDE vol.I

品切れ本を中心とした書評ページです。

エッセイ・評論 思想・芸術 文学
四百字のデッサン_野見山暁治

四百字のデッサン

野見山暁治

1978年1月30日発行 河出書房新社刊 224ページ

目次
I ひとびと
戦争画とその後 ─ 藤田嗣治
パリの友人 ─ 金山康喜
マビヨン通り ─ 椎名其二
椎名さんの借金 ─ 森有正
留学生のころ ─ 小川国夫
美しい骸骨 ─ 今西中通
法隆寺の壁 ─ 和田英作
巨匠の贈りもの ─ 坂本繁二郎
同級生 ─ 駒井哲郎
四畳半の居候 ─ 田中小実昌
「自由美術」の画家たち
「荒地」の詩人たち
画家の髯
ヨーロッパで逢った女たち

II うわの空
(タイトル省略)西日本新聞夕刊連載コラム49編

2003年、東京国立近代美術館で野見山さんの展覧会が開催されることになり、わたしの社でその展覧会カタログを制作させていただくことになった。巻末の資料ページの参考にするため、野見山さんの何冊かの著書が社に届いた。何気なくページを繰り始めて、3分後には止まらなくなった。それがこの『四百字のデッサン』だ。エッセイスト・クラブ賞を受賞した世評高い本であることは知っていたが、まさか、こんなに素晴らしい人間洞察に満ちた本だったとは。うかつだった。

ご挨拶かたがたはじめてお目にかかった野見山さんは、83歳のご高齢にもかかわらず、背筋のしゃんと伸びたスマートな紳士であった。なにかしら飄々とした雰囲気を漂わせられ、ジョークを口にするときの、いたずらっぽそうな眼差しが魅力的であった。でもこの画家の目こそ、出会った人物のひととなりの骨格を鋭利に描ききる冷徹な能力をそなえていたのだ。

椎名其二

本書の中でも、特に白眉と目されるのが「マビヨン通り ─ 椎名其二」と「椎名さんの借金 ─ 森有正」の二章だろう。パリに客死した椎名其二という日本人コスモポリタンは、いまではほとんど忘れ去られた人物なのだが、このエッセイによって、ながく日本の読書人に強烈な印象を残すことになった。

「椎名さんの部屋はいつも膠(にかわ)の匂いがしていた。仕事机の上には小刀や木ワクが整然と並べられ、時には乱雑に散らばってもいた。椎名さんは仮綴じの本をバラバラにし、製本しなおし、皮の表紙の書籍に仕立てる仕事をしていた。好事家がいろんな本をこの部屋へ運んできては、装幀のみごとな製本を期待する。椎名さんは本の内容にしたがって表紙の皮の質や色から、裏表紙、扉の紙にいたるまで詳細に吟味してうるさかった。(略)たまに椎名さんの好きな本なぞが入りこむと、パリ中を歩きまわって色や模様の選択が異常にうるさくなり、約束の日までに出来上がるということは先ずなかった。
 そんなにお客を困らせるぐらいなら、誰か傭ったらどうですか。とあるとき、私は山積みになったままの仮綴じの本を眺めて椎名さんに言った。何気なく言ったつもりだったが椎名さんはそのとき真剣になっておこった。きみは私に搾取しろというんですかい。手に職をもち、人の生活をさまたげず、自分の働いた分だけの報酬を手にすること。これは椎名さんの信条だったのだ」。

しかし、この一徹な老人は清貧と粗食に甘んじているような単純な人物ではなかった。 「食べる物には目がなかった。これ以上の肉はありませんや。肉屋の親父は、だから椎名さんには愛想がいい。もっとうまい肉がこの店にはあるはずだが。お客にそう言われて親父はムッとした。椎名さんはステッキを持ちあげて、ゆっくりと差し示す。あの肉が最高だ。親父はその方を見て、とたんに笑いこけた。そこに立っているのは彼の太った女房だ」

皮肉なユーモアの感覚にもすぐれ、友人を招いての会食や芝居など、生活を楽しむことに貪欲だった椎名老人は、しかし、他人が一方的に自分の生活に入りこんでくると激怒した。たとえそれが彼を救うためであっても。

「七十年来の寒さが襲ってきた冬のさなか、椎名さんの部屋のストーブがきかなくなった。(略)とりあえず石油ストーブを私たちは何人かで金を出しあって買ってきた。こうでもして少しでも部屋を暖めないと年寄りは凍りつくかも知れない。本当に心配なのだ。椎名さんは顔色をかえておこった。そうだったのか。きみ達にとって私はそういう存在だったのか。いたわられていたのか、沢山だ。もう二度とこないでくれ。頑固な老人ほど厄介なものはない。私たちは持ちこんだストーブをその家に置いて帰るために、かなり長い時間叱られつづけた」。

友人たちの援助の手だけではない。この老人は、いよいよ体が弱ってきたとき、一人息子の同居のさそいをも頑なに拒み、妻だけを息子に預けると、自分は知り合いの別荘に移り住み、ひとり暮らしを始める。「何て人間はぶざまなんだ、鳥や獣のようにひっそりと自分だけで「死」を処理できないものなのか。椎名さんはそう呟き、死期がいよいよ迫ってから、あれほどにも嫌っていた病院へ自分から足を運んだのだ」。

パリという街は、そこ以外で生活してきたフランス人にとってさえ、しばしば冷たい異国に感じられるという。そんな街で個人の生の尊厳を、冷徹なほどわがままに貫き通したひとりの日本人への、これは温かなオマージュなのだろう。

森有正

「椎名さんの借金 ─ 森有正」では、椎名其二の交友圏に現れる森有正の姿が、数々のエピソードを通じて描かれる。借金をめぐってふたりの交友はいったん途切れるが、ある日偶然、街角で野見山さんと出会った森有正が、椎名さんの死を聞かされ、涙を滂沱と流すという話は心に沁みる。そのときの森氏の感慨は、名著『木々は光を浴びて』に収録され、本書にもそれが引用されている。複雑で一筋縄では理解できない椎名其二という人間を、友情がなかば壊れたあとであっても、自分の「経験」のなかで理解しようと努める森氏の愚直なまでの誠実さを知ると、信念の違いを超えた彼方に佇立する、人間の個性の尊さに思いを致さざるをえない。

さて、野見山さんの展覧会会場では、本書の文庫本(河出文庫)が販売されていた。それが毎日、文字通り、天使の羽根が生えたように何十冊も売れていく。しまいには売り切れ寸前となり、版元は急きょ増刷を決定したと聞いた。みんな、すごい本のことは知っているのだ。

本書は河出文庫で入手可能。この続編ともいえる『遠ざかる景色』(筑摩書房刊、品切)所収の「マドモアゼル・セスネイ」は、読む者の心を打つ名品。

                          by takahata: 2004.11.30

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エッセイ・評論篇

01『先師先人』竹之内静雄
02『ユルスナールの靴』須賀敦子
03『四百字のデッサン』野見山暁治
04『はじめもなく終りもない』宮脇愛子
05『光る源氏の物語』大野晋・丸谷才一
06『歌の王朝』竹西寛子
07『メモワール・ア・巴里』村上香住子
08『復興期の精神』花田清輝
09『胡桃の中の世界』澁澤龍彦
10『椿説泰西浪曼派文学談義』由良君美
11『異端審問』ボルヘス
12『鏡のテオーリア』多田智満子
13『あぢさゐ供養頌』村松定孝