BOOK GUIDE vol.III | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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品切れ本を中心とした書評ページです。 |
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イタロ・カルヴィーノ/米川良夫訳 1964年8月20日発行 白水社刊 308ページ カルヴィーノは死後になっても翻訳が刊行されるほどに、日本では人気がある。わたしにとっても大好きな作家なので、絶版・品切本ではないにもかかわらず、ここにとりあげようと思う。でも、なにかルールがあったほうがいいかもしれない。では、「本好きカルヴィーノ」というのはどうだろう? カルヴィーノには『冬の夜ひとりの旅人が』という奇想天外な作品がある。第一行はこうだ。 小説を読むこと自体を小説にする。それほど、カルヴィーノは本の魔力に取り憑かれていた作家だ。『冬の夜ひとりの旅人が』には、物語が始まってすぐの箇所に、以下のように一度読んだら忘れられない描写が目に飛びこんでくる。少々長いけれど、端折ることはできません、まぁ、読んでみてください。太字になっている「本」の原文は「i Libri」で、すべて大文字の複数。ということは、「まったく!」という感慨のこめられた数冊以上の本というニュアンスだ。 「本屋のショーウィンドーの中であなたは自分が探していた題名が書いてある表紙を見て、視覚に残ったその痕跡を頼りに、陳列台や書棚からあなたを脅かすようにしかめっつらをしてあなたをにらみつけているあなたが読んだことのない本がぎっしりとひしめきあった障壁の間をかきわけるようにして店の中を進んで行った。だがあなたはなにも恐れる必要などないということを、そこには読まなくてもいい本が、読書以外の用途のために作られた本が、書かれるより以前にもう読まれてしまっているというような類に属する限りでは開く必要さえもなくすでに読んでしまったとも言える本が、長々と展開しているにすぎないことを知っている。こうして最初の防壁を突破すると、あいにくあなたの人生は今あなたが生きているものでしかないので仕方がないがあなたがもっといくつもの人生を生きることができたら喜んで読むかもしれない本からなる歩兵どもが襲いかかってくる。あなたはすばやくそれらを蹴散らすと、読むつもりではあるが先にほかのものを読むことにしている本、値段が高くて半額で再版される時に買うまで待っていてもよい本、同じくポケット版で再版されるまで待っていてもよい本、誰かに貸してくれと頼める本、みんなが読んでいるのであなたも読んでしまったような気になっているような本からなる密集陣のまっただなかに突っ込んでいく。それに風穴を開けると、あなたは砦の下にたどりつく。そこを固めているのは、 どうです? まるで、あなたのことを書いてあるみたいでしょう? さて、本書『木のぼり男爵』にも、そのような読書に魅入られた登場人物が出てくる。が、先を急ぎすぎた。その前に、本書の粗筋を。時代は18世紀の後半。主人公のコジモは封建貴族の跡取り息子なのだが、ある日、食事中にささいなことがきっかけで、食堂から出て行くように父親に命じられる。反抗したコジモは家を飛び出して庭の樫の木に登る。そして12歳だったその日から、とうとう昇天する日まで、一度も地上に降りることはなかった。ただ、コジモは一本の木の上にじっとしていたわけではなく、枝から枝へとつたって、町中の街路樹や深い森のあちこちを自由自在に動き回り、数々の冒険をする。それどころか、当時流行の啓蒙思想の本を片っ端から読みあさって、自由思想を信奉する知識人となり、木の上に印刷機を据えて新聞まで発行する。その奇妙な名声は、遠くパリにいたヴォルテールの耳にまで達していたほど。 では、本題に戻って、『木のぼり男爵』に登場する本好きの話題に移ろう。彼の名は、荒ら草のジャン。近隣の住民はその名を聞いただけで震えあがるほどの凶悪な山賊だ。ある日、木の上で読書に没頭していたコジモは、警官に追われていたジャンを縄で引っぱりあげて樹上にかくまってやる。ジャンはコジモの本を見ると、一日中隠れているのは退屈なので、何か本を貸してほしいと申し出る。こうして読書熱に取り憑かれたジャンは、山賊という本業もそっちのけで通俗小説に夢中になってしまった。 一度、『テレマックの冒険』をジャンに貸したところ、こんな退屈な本を今度よこしたら、おまえのいる木を切り倒してやると怒られる。以来、コジモはプルタークの『英雄伝』を読みながら、ジャンにはせっせとイギリスの通俗小説を貸し与えるのだった。この辺、カルヴィーノの好みが顔をのぞかせて、微笑を誘います。 ただの腑抜けの本好きになりさがったジャンのところへ、昔の子分がやってきて、彼を強盗の計画に誘う。だが、小説に夢中のジャンは耳を貸そうともしない。そこで子分はジャンの手から本を取りあげると、ページを破って火の中に投じる。ジャンは、やめてくれ、と絶叫する。しかし、話に乗ってこないジャンの態度を見た子分は、また別のページを破って燃やしてしまう。まったく、これでもか、これでもか、である。本好きにとって、これ以上のリンチはあるでしょうか? 本を取りあげられたジャンは、続きを読みたい一心で、いやいやながら強盗計画に乗るが、失敗して囚われ死刑の身となる。心優しいコジモは、ジャンの牢獄の鉄格子越しに、木の上から本の続きを読んでやる。2冊目が終わらないうちに死刑執行の日がきた。 「首に縄をかけられた時、荒ら草ジャンは枝のあいだから一声、口笛を聞いた。顔をあげると、閉じた本をもって、コジモがいた。 本の話題をめぐって、笑わせたり、しんみりさせてくるカルヴィーノ。では、彼自身は書物というものに、読書という行為に、何を求めていたのだろう? 彼の早すぎた死ののち、読書をめぐってのひとつの講義ノートが、遺著として出版された。この『カルヴィーノの文学講義』(朝日新聞社刊)という講義草稿の末尾には以下のような言葉がしるされている。 「..... 私たちは何ものなのでしょう? 私たちの一人一人は、経験や、情報や、読書や、さらには想像作用などの組み合わせでないとすれば、何ものなのでしょう? あらゆる人生は、それぞれ一個の百科全書、図書館、物品目録、文体の標本集なのであって、そのなかではたえずすべてが混ぜ返され、あらん限りのやり方で並べ替えられているということもあり得るのです。 カルヴィーノという自我から解き放たれた本! でも、それを書くのは誰なのだろう? それは何ものなのだろう? 先にわたしは『冬の夜ひとりの旅人が』を「小説を読むこと自体を小説にする」作品だと定義してみた。これもひとつの「カルヴィーノという自我」から自由になる試みだったのだろうか。しかし、これ以上の理屈をこねることは差し控えておこう。なぜなら、『木のぼり男爵』には、「自我の狭い見通しから私たちを引き出してくれるような」瞬間を、恋人たちの感動に託した美しい一節があるからだ。最後にそれを引用しておこう。コジモが、ヴィオーラという初恋の相手で、猛烈に勝ち気な女性と十数年ぶりに再会し、木の上の自分の住み処に彼女を案内する場面だ。 「『ほかの女もここに連れて来たの?』 by takahata: 2004.12.01 |
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『冬の夜ひとりの旅人が』 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
『カルヴィーノの文学講義』 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||