文学 |
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BOOK GUIDE vol.III | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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品切れ本を中心とした書評ページです。 |
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水上勉 1975年4月20日 中央公論社刊 376ページ 孤独を縁として 作家・水上勉は昨2004年に85歳の生涯を閉じた。水上は生家が貧しかったため9歳で臨済宗の相国寺系の寺の徒弟に出され体得するが、長じて還俗し、職業を転々としながら作家の道をいつしか歩み始めた。自らの寺僧体験をもとに、仏教にちなむ数々の小説やエッセイ、紀行文などを遺したが、なかでもその筆頭に挙げられる作品が、この『一休』だろう。 水上をして一休という狷介孤高の存在に肉迫せしめたのは、幼いときに家族から引き離されて味わった「孤独」という原体験だ。600年あまり昔に、自分と同じような境遇を過ごした一休という実在の高僧がいた ── 年齢を重ねるごとに、作家の裡で一休の存在が徐々に大きく立ちはだかってきた。こうして、水上は半生をかけて渉猟した数多の一休伝を引きながら、一休の生き方の真意に迫ろうと格闘を開始した。 初版の帯には、著者のことばとして次のような簡略な文が寄せられている。 一休は1394(応永元)年に生まれ、1481(文明13)年に88年間の生涯を閉じている。足利義満が金閣寺を造営した年に生まれ、義政が銀閣寺を建てた前年に亡くなっている。同時代人としては、世阿弥、宗祇、雪舟、蓮如らの名前が挙げられる。ヨーロッパでは、トマス・ア・ケンピスが『キリストのまねび』を、ヴィヨンが『遺言詩集』を著し、コジモ・デ・メディチやフィチーノがフィレンツェ・ルネサンスの仕上げにかかろうとしていた時代だ。西では宗教者と強盗詩人、大富豪と神学者。東では....。この時代、洋の東西を問わず、新旧の価値観は錯綜し、人間はむき出しの姿で生きていた。日本でもまさに下克上の世相が始まろうとしていた。公家の支配階級が没落する一方、振興の武家勢力が台頭し始める。一休が生活していた京の都周辺は、生活に窮した百姓や下層民による一揆が続発する一方、明貿易で巨利を占めた新興商人階級からは、能楽や茶の湯、連歌といった日本独自の美意識が胚胎していく。 一休と水上勉 そんな混迷の時代に、一休は後小松天皇の落胤としてこの世に生を享け、6歳のときに母と別れ、禅僧として出家する。13歳になると一休は建仁寺へ移り、そこで漢詩教典を学ぶ。こののち彼は折々の感慨を詩作に託し、生涯の作品は『狂雲集』としてまとめらた。これが一休その人の名を後世に残すことになる。このほかに一休の生涯を伝える一次資料は、弟子の没倫紹等の残した『東海一休和尚年譜』『一休和尚行実』があるのみ。 ここで困ったことがおこる。一休の肉声を伝える『狂雲集』と、師に忠実な弟子の伝える『年譜』との間に、ある奇妙で重大なズレが生ずるからだ。弟子の書き残した『年譜』に表れるのは大悟徹底した禅者の一休だ。けれど、本人の遺した『狂雲集』の一休は、喜怒哀楽が激しく、俗物の兄弟子を罵倒し、酒も飲めば遊女も抱くという破戒僧の姿を包み隠すことがない。特に、『狂雲集』の最後に歌われる森侍者(しんじしゃ/侍者は貴人の世話をする人をさす呼称)という盲目の女性との赤裸々な交情賛歌は、一休の超俗の境地を伝えるものとして昔から名高い。 はたして、遺された文献資料と文学作品とに見られる一休像の落差は、当然の帰結として、後世の解釈の幅を拡大した。老僧と盲目の美女という組み合わせは、著述家の想像を逞しくさせる。唐木順三までもが、評伝集『應仁四話』で「しん女語りぐさ」という一篇を著し、森が一休との愛情生活を回顧するという物語を創作している。水上勉の『一休』も、人間・一休の生涯のクライマックスを描くとき、80歳を超えた老僧と女盛りの森との交歓・交感風景を描く。ただ、一休という男のエゴイズムを批判的に見ながら、盲目の女性という徹底的な弱者を見守る水上の心優しい眼差しは、読む者の心にせまる。 一休と柳田聖山 これに対し、禅文学者・一休を徹底的に解読した人物がいる。『一休 「狂雲集」の世界』を著した柳田聖山だ。柳田によれば、一休の漢詩は一字一句にいたるまで中国の晩唐期の漢詩作品をふまえているという。一休の漢文学の素養は桁外れに深い。森という女性が実在したか否か、それはたいした問題ではない。しかし、漢文学の伝統を踏まえれば、一休にとって森侍者は〈文学的に〉存在しなければならなかった。柳田はそう指摘する。一休という巨人に対峙するにあたって、水上といい柳田といい、わたしたちは最良の多面的な先達を持つという幸運に恵まれている。 さて、一休は『狂雲集』において「美人」という言葉を使う。森侍者のことも美人と呼ぶ。しかし、柳田によれば、中国詩の用例においては、「美人」という語は女性に限るわけではなく、男性の貴公子、君子を指すことは普通の語法であるという。一休は、敬愛する釈尊や仏祖を「美人」呼ぶことすらあると思しく、そこにこそ仮構としての文学創造の醍醐味があると、柳田は指摘する。ここで、なかなかに衝撃的な一詩を例として挙げてみよう。 〔美人の婬水を吸う〕 〔妻の聖水を口にして〕 詩題の「美人」を素直に盲目の美女・森侍者ととるか、それとも仏祖ととるか。前者であれば、いい年齢をした成年男子でも顔が赤らむ直截な題だし、後者であれば、このような猥雑なひねった表現を敢えてした一休の真意を測りかねる。もはやここに至っては史実の詮索は不可能であるし、必要なこととも言えない。遺された表現だけが真実だろう。一休本人の作った歌ほど事実はないとする水上説と、狂雲集は一休が生涯をかけて彫たくした禅文学的フィクションであるとする柳田説のはざまで、わたしのような凡人は空を仰ぐしかない。水上には、森侍者との交歓は事実でなければならないとする情理の深さがある。柳田には、森侍者との交歓は創作でなければならないとする学知の重みがある。忽然として、禅の公案のごとき一休像がたち現れてくる思いがする。 一休と李商隠 禅の公案集『無門関』第四十三則に「首山竹篦(しゅざんしっぺい)」という有名な公案がある。 竹のへらを取り出して、これを竹のへらと名指しても名指さなくても、どちらも間違いだ。さあ、何と名指す? 同じく、一休の「美人」を何と呼ぼうと、必ず人はあやまつ。けれども、それは名指さなければならない「美人」なのだ。だが、ひと言でも言ってみよ、一休はその人に痛棒を喰らわすだろう。ひとはそれぞれの妄想の中に生きる権利とつとめを負うのだとしても。 最後に、水上版『一休』や柳田訳『狂雲集』を読み進むうちに、一休が愛読してやまなかった三体詩の詩人のひとり、李商隠のデカダンな作風が、なぜかわたしの脳裏に去来したことを付言しておこう。その理由は、岩波版『中国詩人選集15 李商隠』の巻末に付された吉川幸次郎氏の解説が、よく解き明かしてくれる。その一部を抜粋して、この稿を終えるとする。 「艶冶な詩ばかりを作りたがる彼(李商隠)の心の奥底には、すぐれた詩人が必ずもつべき一つの性質、すなわち反逆の精神、ないし反撥の精神と呼ばるべきものが、あったということである。要するにたくましい土性骨である。(略)それにしても、彼の文学の中心となるものは、最も健康とはいえぬ手法で歌いあげられた最も健康とは言えぬ世界である。それが文学としてもつ最も多くの価値は、何か。そのあまりにも多彩であるがゆえに不健康さを感じさせる世界が、実は、人生のむこうにしのびよる闇の世界、そのすぐ上に密着してひろがるものとしてあり、裏側にある闇の世界へのおそれを、敬虔にうながすからではないか。『晩に向(なんな)んとして意適(かな)わず、車を駆りて古原(こげん)に登る。夕陽無限に好し、只だ是れ黄昏に近し』」 by takahata: 2005.03.13 |
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