BOOK GUIDE VOL.III | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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品切れ本を中心とした書評ページです。 |
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泉鏡花 鏡花の復権 明治期の文豪のなかで、漱石、鴎外を別にすれば、いまなお全集・選集が刊行され続けているのは泉鏡花くらいのものではないだろうか。いまでは、ちくま文庫や岩波文庫でたいがいの代表作を読むことができるが、1970年代までは事情がちがった。全集を別にすれば、『高野聖』『歌行燈』などの文庫がかろうじて書店に置かれているだけで、なかば忘れ去られていたに等しい作家だったのだ。そんな鏡花を忘却の淵から救いだすにあたっての、三島由紀夫の功績は大きい。1970年に刊行された中央公論社版日本文学全集の一巻『尾崎紅葉・泉鏡花』集の解説において、三島氏はこう高らかに宣言した。 「私は今こそ鏡花再評価の機運が起るべき時代だと信じている。 三島氏はこの中央公論社版『尾崎紅葉・泉鏡花』集で、泉鏡花については次の四作品を選びとった。初期作品からは『黒百合』を、短編小説からは『高野聖』を、戯曲作品からは『天守物語』を、そして晩年期の作品からは『縷紅新草』を。 鏡花は19歳という若さで小説家として出発し、名作と目されるものの大半を二十代、三十代の若さで世に送りだしてしまっている。四十代以降はさすがに発表作品の量と質において下り坂を迎えたように見うけられるが、それでも間歇的に名品・神品を発表し続けていた。そんな鏡花が1917(大正6)年、44歳で世に問うた一代の名作戯曲が『天守物語』である。 伝統文学との連続性 舞台となる時代は「不詳。ただし封建時代──晩秋」である。場所は「播州姫路。白鷺城の天守、第五重」。 「千草八千草秋草(ちぐさやちぐさあきぐさ)が、それはそれは今頃は、露を沢山(たんと)欲しがるのでございますよ。刻限も七つ時、まだ夕露も夜露もないのでございますもの」 この幕開けの場は、何度読んでも典雅な綺想に満ちて美しい。ところで、秋草を釣るこのたおやかな侍女たちは、桔梗、萩、葛(くず)、女郎花(おみなえし)、撫子(なでしこ)という秋の七草の名前なのだ。ということは、花々の化身が、同族の野の花に水を恵みながら戯れているという妖しい光景にも見えてくる。 富姫「夜叉ケ池のお雪様は、激しいなかにお床しい、野はその黒雲、尾上は瑠璃(るり)、皆、あの方のお計らい。それでも鷹狩の足も腰も留めさせずに、大風と大雨で、城まで追返しておくれの約束。(略)私が見ていたあたりへも、一村雨(ひとむらさめ)颯(さっ)とかかったから、歌も読まずに蓑を借りて、案山子の笠をさして来ました。ああ、其処(そこ)の蜻蛉(とんぼ)と鬼灯(ほおずき)たち、小児(こども)に持たして後ほどに返しましょう」 この流れるようにリズミカルな日本語の調べ。三島氏でなくとも陶然としよう。ましてやこの台詞が舞台の上で朗々と語られる劇的な効果を想像してほしい。 上田秋成にまねぶ 会津から姫路までの五百三十里の距離を空高く風に運ばれ、駕籠に乗った亀姫の一行がいよいよ到着する。先達をつとめる家来の「朱の盤坊」、大女中の「舌長姥(したながうば)」といった妖怪たちはあまりにも有名だが、みやげの生首をはさんでユーモラスでグロテスクなやりとりを繰り広げるふたりの妖怪の姿は、可憐な秋草釣りの場面の直後だけに、劇の異様性を一挙に高める。 さて、亀姫がわざわざ白鷺城の天守にやってきたのは、ただ、富姫と手鞠つき遊びをする、ただそれだけのためにである。その約束を果たすと、亀姫は早々に帰途につく。その時、突然の雨に出会い鷹狩りを取りやめた城主の一行が戻って来る。と、その鷹狩り用の白い鷹に亀姫の目がとまった。 富姫「おお。(軽く胸を打つ)貴方。(間)あの鷹を取って上げましょうね。」 年下の亀姫はおっとりとした山の手の令嬢風の言葉遣いなのだが、富姫のほうは、姐御肌(あねごはだ)の芸者衆さながら伝法なもの言いをする。それにしても「それは姫路の、富だもの」という啖呵はおもしろい‥‥気っ風のいい凛とした芸妓と、人間の俗悪を嘲る異界の神女、鏡花にとっての理想の女性像が両者とも混然一体となって、この富姫にはあますところなく顕現している。 大団円とはこのこと 亀姫が去り、富姫はひとりで机に向かい巻物を読みはじめる。「ここは何処(どこ)の細道じゃ、天神様の細道じゃ」という手鞠唄が再び流れてくる。「行きはよいよい、帰りはこわい」というこの唄ほど、この天守に似合う唄はない。と、人間が恐れて近づかない天守への細い階段を誰かが昇ってくる。姫川図書之助という若い美貌の侍が、天守に飛び込んだ鷹を取り戻すため、百年来だれも登ってきたことのない天守にやって来たのだ。 「お顔が見たい。唯(ただ)一目。……千歳百歳(ちとせももとせ)に唯一度、たった一度の恋だのに。」 武威や権力で人が人を押しひしぐ人間界の理不尽さを、天守の高みから嘲笑する超然と気高い異界の住人たちの恋の物語は、このあと、急転直下の結末を迎える。この賛否の分かれる結末については、これから本書に赴かれる方たちのためにも、ここには書かない。けれども、鏡花の脳裏にはやはり、上田秋成の「目ひとつの神」中の、この一節があったのではなかろうか。 1972年には雑誌『現代詩手帖』が別冊特集として「泉鏡花 妖美と幻想の魔術師」を刊行して、鏡花再評価の機運をさらに加速化させた。 by takahata: 2006.05.26 |
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手軽に読むなら岩波文庫版が適当。84年の刊行以来、2005年で35刷を重ねるという隠れたベストセラーになっていたとは驚き。 |
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新潮日本古典集成版『春雨物語』 |
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