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失われた本を求めて
BOOK GUIDE vol.III

品切れ本を中心とした書評ページです。

エッセイ・評論 思想・芸術 文学
黒の過程_ユルスナール

黒の過程

マルグリット・ユルスナール 岩崎力訳

1970年11月10日発行 白水社刊 414ページ
原著は1968年刊

目次
第一部・放浪/第二部・蟄居/第三部・牢獄

「アダム以来、二本脚の動物で人間の名に値したものはそう多くはないのだよ」 (本書 p.128)

『黒の過程』は、『ハドリアヌス帝の回想』(1951年刊)と同様、作者のごく若い時期(18-22歳頃)に企図され、ほとんど40年以上の歳月をかけてユルスナールの精神のなかで熟成された歴史思想小説である。60歳前後の時期に集中的に書きあげられ、1965年頃には一応完成していたらしいが、『ハドリアヌス帝の回想』を刊行したプロン社との契約関係がこじれ、結局、本作品が世に出たのはガリマール社からであった。それまでの間、グラッセ社をはじめフランス中の文芸出版社が獲得にしのぎを削ったという。その出版は1968年。フランス全土は、体制に異議申し立てを叫ぶ学生たちによる「五月革命」で騒然としていたが、ユルスナールは『黒の過程』の発売に立ち会うため、まさにその5月はパリに滞在していた。市街戦さながらにバリケードの築かれたパリ市街の様相は、彼女の眼には、幻視の画家・ボッスの描いた終末世界と重なって見えたのではないだろうか。ちょうど『黒の過程』に描かれた16世紀のフランドル地方の街・ブリュージュがそうであったように。

この物語の時代背景

主人公・ゼノンは、1510年に生まれたと設定される架空の人物で、錬金術師であり、外科医であり、哲学者である。錬金術師にして外科医という想定はパラケルススをモデルに、哲学者としての側面はカンパネッラやジョルダーノ・ブルーノをモデルにするところが大きいが、ユルスナール自身の覚え書きによれば、その他にも有名無名を問わずさまざまな実在の人物からエピソードを得ているという。また、ゼノン以外の登場人物や物語を構成する事件も、その役割の大小にかかわらず、ユルスナールが長い時間をかけて発掘した1500年代のさまざまな古文書や年代記の記録から再構成されており、その事実の重みがこの歴史物語にまれに見る迫真性を与えている。主人公・ゼノンの約60年間の生涯に圧縮して物語られるこの「1500年代のヨーロッパ」こそが、本作品の真の主人公といえるだろう。
 それにしても、ヨーロッパの1500年代とはなんという激動の転換期であったことか。その時期、ヨーロッパは、新旧の価値観、聖と俗の世界観を綯い交ぜにしつつ、中世から近世へと大きく移り変わろうとしていた。政治的にはイタリアを領土争いの舞台としたフランス・ドイツ・スペインの戦争が繰り返されていた。ローマ法王庁も教会領の拡大のために列強諸外国と連衡合従を繰り返し、イタリア分裂を加速させ、宗教的な権威低下を省みないままにルターによる宗教改革を招いてしまう。1527年にはドイツ軍による悪名の高い「ローマの掠奪」が起こった。しかし皮肉にも、イタリア戦争はイタリア国外へのルネサンス文化の普及を招来した。このように政治・宗教・文化が連鎖反応を起こして、近世国家体制が形成されていったのが1500年代のヨーロッパである。

絵画に表れた1500年代:ボッスとデューラー

さらに、1500年代のはじめの頃に活躍していたふたりの画家を例にとれば、地域による文化の違い、世界観の違いが見えてくるだろう。ユルスナールの覚え書きにあるように、本書第一部「放浪」は、若書きの短編「ゼノン ─ デューラーふうに」の再構成である。デューラーの有名な《メランコリア》の人物のイメージがゼノンのイメージに重ねられているのだ。デューラー(1471-1528)は1500年前後にイタリアでルネサンス芸術を学び、後に写実的な画風を確立した。皇帝マクシミリアンの宮廷画家としてドイツ文化の表象を担わされたこの画家の、解剖学的にも正確な人体表現は、現代人の目から見ても違和感のないリアリズムに達している。目覚めた人間・ゼノンのイメージにふさわしい画風といえよう。
 ところが一方で、デューラーの生きた時代にほとんど重なるようにして、フランドル地方の辺境には、ヒエロニムス・ボッス(1450頃-1516)という謎に満ちた画家もいた。ボスの描いた悪夢のような世界を念頭におきながら、ユルスナールは、本書の第二部・第三部をフランドル的と呼んでいる。
 デューラーは、人間を視覚的に写実主義的に写し取って、その精神性までをも表現しようと試みた。ボッスは、人間を感覚的に寓意的に写し取って、人間を群れのなかの一種の野生動物として表現した。そのどちらの表現も両立してしまう世界が、当時のドイツ、フランドルの現実だったのであり、ユルスナールがこの小説の舞台に選んだ場所だったのである。

思想に表れた1500年代:ピコとブルーノ

本書第一部の冒頭、ユルスナールによって用意周到に置かれたエピグラムは、ジョヴァンニ・ピコ・デッラ・ミランドラ(1463-1494)の『人間の尊厳について』(ピコの死後に刊行)の最も有名な一節である。「人間は自分の自由意志に基づいて、自分の本性を選択し決定できる」というピコの独自の人間観は、フィレンツェ・ルネサンス思想のひとつの究極的な帰結点であったが、神の地位さえも脅かしかねない人間の賞揚を謳う意見はもちろん当時のローマ法王庁から異端として斥けられた。
 しかし、そのほとんど百年後、やはり異端の罪で火刑に処せられたジョルダーノ・ブルーノは、宇宙の無限性を主張し、神の統べるこの世界(地球)の唯一性を否定し、カトリック神学に異議を申し立てる。人間は宇宙の暗い深淵のなかに漂う存在になってしまった。
 自由意志に目覚めた人間が、百年後には神の存在に疑義を感じ始め、と同時に無限宇宙という深淵に漂う矮小な存在として自己を認識し始める。ルネサンスの栄光と17世紀の近代科学の誕生をつなぐ「迂路」。ユルスナールが選んだのはそんな世紀だったのである。ただし、これは重要なことだが、主人公のゼノンは決して無神論者ではありえない。ユルスナールも用心深く記述したように、ゼノンはあくまで信仰を捨ててはいない。いや、捨てることはできなかったはずだ。なぜなら、ブルーノの無限宇宙論はあくまで哲学的な思惟の果ての結論であり、コペルニクスの科学的観測から演繹された仮説にすぎなかったからだ。ゼノンの生きた世紀の世界観は、いまだアリストテレスの説く世界 ─ 天界は巨大な天蓋におおわれている ─ 以外は考えられておらず、天界の神はいまだ人間界を見下ろしていたはずだからだ。すぐ後に引用するが、僧院長とゼノンとの「神の沈黙」をめぐる対話は、そのような時代的な制約を想定して、構想されたものなのだ。
 さて、「深淵」という言葉をここで使ったのには訳がある。本書の第二部「蟄居」中にも「深淵(Abyss)」という見出しがあるのだが、本書の英訳版はこの「Abyss」がタイトルとして採用されている。ユルスナールがこの英訳版タイトルの選択に関わっていないはずがないので、これは本書のもうひとつの題名とも言えるだろう。では、『黒の過程』と『深淵』との共通点はどこにあるのか。それは最後にもう一度考えるとして、本書のなかへ進んでいこう。

物語の展開

第一部「放浪」では主人公ゼノンと従弟のアンリ=マクシミリアン各々の放浪時代とたまさかの邂逅、そして永遠の別れが重厚な筆致で描かれる。なかでも「インスブルックでの会話」と題された章は、放浪の人生に倦み疲れたふたりの中年男の独白が、静かな諦念のうちに語り続けられる。モーツアルトのピアノ・コンチェルトの第二楽章のような、苦いアダージョの味わいがある。

「人間が、ほとんどつねに不幸な結果しかもたらすだけのものを建設するためにその実質を浪費し、性器を解剖するまえに純潔を語り、目の前に急に棒をつき出せば目をしばたたく無数の理由を解明しようと努力するかわりに自由意志の問題を論じ、死とはなにかをもっとつっこんで究明する前に地獄を論じるのを聞いて、ぼくは苛立ちを覚えたものだ」(p.134)

こう呟くゼノンの探し求めたものは何だったのか。

「それがなになのかはわからないが、おれたちよりももっと完璧ななにかが、どこか余所にあるにちがいないのだ。それが目の前にあれば内心忸怩たらざるをえず、しかもその不在には耐えられない、そういう《善》が存在するにちがいないのだ」(p.142)

こう語るアンリ=マクシミリアンは、ゼノンとはまったく異なった人生を選択したとは言え、二人の行路の放物線は意外な高みで交わっているのではないだろうか。

そのほか数々の人間たちの出会いと別れがその背景に鏤められていて、物語は歴史小説らしく錯綜の度合いを深めていく。虚実を巧みに織り交ぜるユルスナールの小説作法は熟練のわざとしか言いようがないが、なかでもミュンスターにおける再洗礼派の籠城事件は史実に基づいているだけに、衝撃をもって読者を圧倒するだろう。それにしても時代が、事実の積み重ねで淡々と描かれるとき、リアリズム描写がかえって幻想的な雰囲気を醸し出し始めるのは、事件そのももの異様さによるよりも、降り積もった時間の層に隠された「真実」が、束の間、たち顕れてくるからだろうか。

第一部のドラマチックな展開にくらべると、第二部「蟄居」は、がらりとトーンを変える。長年の放浪生活に倦み果てたゼノンが、異端告発の危険をかえりみず、故郷のブリュージュに帰還するのだ。ここからゼノンの内面の濃密なドラマが幕を開ける。ゼノンは偽名を名乗って、修道院の医者として働き始める。僧院長はゼノンが危険思想の持ち主であることに気づいているが、世間の不合理さに染まらないゼノンの自由さを愛し、病床にあってゼノンの看護を受けながらいろいろと会話を交わす。わたしはこのふたりの共犯関係を思わせるような対話が好きだ。神の沈黙を前にして、正反対の思想を有する二人の人間の「不一致の一致」が好きだ。たとえば以下のような独白の応酬を見ていただきたい。

僧院長「わたしたちは疑った.... 神はわたしたちの上におられる暴君ないし無能な君主にすぎず、神を否定する無神論者は神を冒涜せぬ唯一の人間だという考えを、わたしは幾夜かけて押し戻したことか」(p.244)

ゼノン「院長さま、わたしたちの苦悩は宇宙の製造所のなかで生じた微少な例外でしかありえず、そのことがまた、わたしたちが敬虔に神と呼ぶあの不変不易の実体の無関心を説明するのかもしれません」(p.246)

わたしたちは、微少な例外にすぎない....... 時にふれて、この言葉を噛みしめようか、われわれも。

続く第三部「牢獄」では、ささいな事件に巻き込まれたゼノンが、自ら正体を明かして異端者として告発されることになる。牢獄につながれたゼノンを救おうと、若き日のゼノンの教師・教会参事カンパヌスが彼を訪れる。ここで交わされる長い対話も本書のクライマックスにふさわしいが、僧院長との対話とは違って、ゼノンは自己の殻に閉じこもり続ける。処刑の前日、嘘でもよいから異端思想の取り消しをすれば、処刑は免れると懸命に諭すカンパヌスに対して、ゼノンは冷たく言い放つ。

ゼノン「それでも、わたしの意に反して、明日火に焼かれて煙をあげるのは、わたしのなかにいるなにものとも知れぬ神なのだと感じるのです。あえて申し上げれば、わたしをしてあなたに《ノン》と言わせるのは、まさにその神なのです」(p.369)
カンパヌス「明日そなたが前言を取り消すとして、そこにどの程度偽善がまざりこんでいるか、それを判定なさるのは神さまだけじゃ。そなた自身が判定者なのではない。そなたが嘘と思うことが、もしかしたらそなたの知らぬうちに表明された正真正銘の信条告白なのかもしれぬ。真理というものは、それ自体へのバリケードを解いた魂に忍び入る秘訣を心得ているものじゃ」
ゼノン「欺瞞についても同じことをおっしゃられるがよいのです、と哲学者は静かに言った。いえ、神父さま、わたしはこれまで生きるために嘘をついたことがありますが、しかしわたしは嘘への適合性を失いはじめているのです」(p.375)

黒の過程とは何か

黒の過程という言葉は、第二部「蟄居」のなかの「深淵」という章で次のように言及される。

「若い神学生だったころ、彼はニコラ・フラメルの著作のなかで《opus nigrum》(黒の過程)つまり、化金石の探求のなかでもっとも困難な部分、形態の溶解や焙焼の試みの描写を読んだことがあった。ドン・ブラス・デ・ベラは、ものものしい口調で、人が望むと望まざるとにかかわらず、条件が満たされさえすれば、その変化は自然に起こるのだ、としばしば断言したものだった。(略)
 錬金術の最初の過程だけでも、彼の全生涯を必要としたのだった。その先にも道があり、人間がその道を通れるとしても、そこまで歩を進めるための時間も力も残ってはいなかった」(p.211)

「黒の過程」とは、錬金術用語にたくされた個々人の精神活動の比喩としても読めるし、視点を拡大すれば時代精神のうねりの暗喩と考えることもできよう。しかもそれは、「人が望むと望まざるとにかかわらず、条件が満たされさえすれば、その変化は自然に起こるのだ」。そして、その変化の行く先は永遠の深淵、暗闇に呑み込まれてゆく。ゼノンは臨終の際にその深淵を深々と覗きこむ。

「暗闇が遠ざかって他の暗闇に場所を譲り、深淵に深淵が、部厚い暗黒に部厚い暗黒が積み重ねられた。しかし目で見る黒とはちがうこの黒は、いわば、色の不在から産み出される色で打ち震えていた。」(p.389)

最後のセンテンスの「色」を「神」に置き換えれば、「神の不在から産み出される神でうちふるえていた」と読み替えることができよう。いや、別に「神」でなくても構わない。それに憧れ、終生それを追い求め、しかしついにつかむことのできなかった何か。その不在には耐えられない《善》。「黒の過程」とは、混沌のなかに、なにものか《恃むべきもの》を見いださずにはおかない人間存在そのものという深淵を言い表してもいる。

by takahata: 2006.06.22

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13『黒の過程』ユルスナール

ユルスナール・セレクション第2巻

本書は現在、ユルスナール・セレクションの第2巻として白水社から刊行されている。私としては上に書影を掲げた「現代フランス小説」シリーズの装幀が懐かしい。ただし、セレクションのほうが全面的に改訳されているので、読むならこちらがお薦め。

人間の尊厳について

『人間の尊厳について』
1985年 国文社刊

無限・宇宙と諸世界について

『無限・宇宙と諸世界について』
1967年 現代思潮社刊
その後、岩波文庫に収められたが、現在は品切れが長く続いている。

千年王国の惨劇

『千年王国の惨劇』
2002年 平凡社刊
ユルスナールも資料にしたはずのミュンスター再洗礼派王国の目撃記録。

ユルスナール伝

「Marguerite Yourcenar: Inventing a Life」by Josyane Savigneau
The University of Chicago Press
サヴィニョーによるユルスナール研究書の決定版。原著はフランス語だが、写真は英語版の表紙。まさに賢者の風格。

象形寓意図の書

『象形寓意図の書/賢者の術概要』
1977年 白水社刊
フラメルの翻訳は「ヘルメス叢書」の一冊として刊行されている。ざっと読んだところでは、ここかなという箇所はあったが、「黒の過程」という言葉そのものは見あたらなかった。フラメルは、最近はハリー・ポッター関係で有名なようです。